『 救世主の国から 』 9

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              

3月5日
  サンタテクラ経由でサンサルバドル火山の大きなクレーター(現地の人はデビルズ・・・ と呼んでいる)へ行こうと計画する。ガイドブックにも結構詳しく紹介されている所だ。サンタテクラへは何度も訪れていたので道に迷わないだろうと甘く見ていた。期待に胸ふくらせて朝早くサンタテクラにやって来た。だが、サンタテクラからの接続のバスがつかまらない。待てども待てどもバスはやって来ない。待つ場所が違うのかもしれない。そう思って、そのあたりで他のバスを待っている人に教えてもらった箇所で何時間も待ったけれど待ちぼうけのまま。バスのスケジュール予定では一時間に一本のバスのはず。しかも帰りの最終便は午後3時。そのため遅くとも火山を昼過ぎには後にしなければならない。ガイドブックには、眺めはよいが何時間もかかるハイキングコースだと書いてある。 だがいくら待ってもバスは来ない。結局、あきらめるしかなかった。まあ、またいずれかの機会という事で・・・。 帰りに貧民区のサンアントニオ・アバドをぶらりと散歩する。ここでもまた感じた。「貧困はもうたくさん、うんざりだ。 しかし見続けなければ・・・」という思い。

3月6日
  朝6時起床。チャラテナンゴ州の北の端、ラ・パルマの町を目指す。長距離バスで片道約3時間半。このラ・パルマの町は1984年、政府側とゲリラ側との和平交渉が初めて行われた所である。最初の和平交渉の地。何か特別なものがあるのだろうと期待してバスに乗り込む。 米国の長距離高速バス・グレイハウンドのようなデラックスなバスだと3時間半なんてあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。だが、ここのバスはそう簡単にいかなかった。まず、座席が問題だった。前の座席と後ろ座席の間が異常に狭い。そのためななめに腰掛けなければならない。大きく重いカメラバッグを持っているため、すぐに背中が痛くなる。こういう時は身体が大きいと損である。たかが100q弱の距離。どうして3時間半もかかるのだろうとつい思ってしまう。だが、いったんバスが山を登り始めてみるとその理由が初めて分かった。坂の斜面を、パワー不足のおんぼろバスがのぼれないのだ。ガタつくバスで北へ向かう道路をただひたすら走る。手持ちぶたさから、窓の外に目をやり、追い越すバスや対向を走るバスの行き先とそのナンバーをメモする。 もしかしたら、今後訪れるかも知れない場所だ。

 行程の後半約3分の一は、ほとんどが山越え、もちろん舗装されていない道路。しかもエンジンが限界にきているバスだ。牛が歩くのと争うようなスピードで山を登る。カメラバッグをお腹に抱えたままの同じ姿勢。つらい。停戦直後、州境や道路の分岐点では政府軍によるチエックポイントが幾つもあり、政府軍兵士が何人か詰めている姿があった。だが、今は彼らの姿は全くといってもいいほど見えない。これも平和へ向かっている証拠の一つだろうか?

  今か今かとラ・パルマの町に到着するのを待つ。いつまでたってもそれらしき町は現れない。そして、やっと着いたと思ったらホンジュラスとの国境の町エル・ポイまで来てしまった。見過ごしてしまった。ラ・パルマという町は一体どんな所なんだ。国境の町、エル・ポイ。もっとも国境といっても大したことはない。小さな食堂、おみやげ屋、何人かの両替商がいるだけの場所。ラ・パルマへ戻ろうにも、国境からサンサルバドルへ向かうバスは1時間待たなければ出発しない。仕方なく食堂で鶏の定食を注文する。ケチャップがいやほどかかった生焼けのチキンを頬張り、早くラ・パルマに行かなければということばかりを考える。食堂のおばさんやお姉さんはじろじろとこちらをうかがって、何者なんだろうかという様子。

  ようやくラ・パルマ到着。朝8時30分に東バスターミナルを出て6時間半かかった。帰りのバスは遅くとも3時半には捕まえなければならない。残された時間は約2時間。勇んでバスを降り町の中に飛び出す。だがそこで、うろたえてしまった。目に移ったのはエルサルバドルのどこにでもある平凡な町の姿。本当に何の特徴もない所だ。平和に向けての交渉が行われたの町だから、きっと何か特徴があるのだろうと思いこんでしまっていた。30分ほど歩き回ってあきらめてしまった。町の中央には教会とメルカード(らしきもの)があるだけ。暑さのせいで人々は家の中に引きこもってしまい通りを歩く人の姿はない。仕方なくこの町の唯一の自慢、民芸品作りの工房をのぞき込み写真を撮っていく。こちらも暑さのせいで少々グロッキー気味。 それでも何か「いいことないかな」と狭い路地を歩き続けてみる。馬の世話をしている親子連れ。学校帰りの子供達。そういえば、ラ・パルマの町に来るまでにバスの中でたくさんの学校帰りの子供達に出会った。彼らの服装は立派で、サンサルバドルのスラムで出会った子供達とくらべようがないほどあか抜けていた。どうやらこの町は裕福な方なんだなあ。あちこちと歩き回り、とうとう同じ所をぐるぐると回りはじめた。いつものように暑さで目の前が白くなてっきた。喉が枯れてしまい。ひりひりと痛い。とりあえず目についた駄菓子屋に入って休憩する。 「ウナコカ」と、馬鹿の一つ覚えの注文。冷たい炭酸の黒い液体を喉に流し込む。あーあやっぱりやめられないこの感覚。すっかり毒されてしまっているなあ。

  「ほっ」と一息ついたところで、こっちをじっと見ているこの駄菓子屋のおばちゃんと話をしてみる。「暑いねー」「本当、暑いねー」「どっからきたの?」「アメリカから来た日本人だよ」「何をしているんだい?」「ぶらりと旅行だよ」「いいね、ところで、何かほかに欲しいものはないかい?」「いいよ、それより、この町で写真を撮りたいんだが、どこかいい所はない?」「それじゃあ、この平和な町の姿を撮って帰っておくれ。戦いの無いこの町の姿を」「・・・」「私たちが誇れるのはそれだけなんだよ。今、私たちが子供達に誇れるのはこの平和だけ。何も無いけど、今までこれが一番欲しかったんだよ。それだけでじゅうぶんだよ」。おばちゃんは当たり前の顔をして、さりげなく言った。その言葉を聞いて恥ずかしかった。心の底から恥ずかしかった。平和の尊さが違うのだ。おれは薄っぺらな気持ちでここまで来ていた。どかどかと土足で人の心の中に押し入っていたようだ。自分は正しいことをしているんだから何をやっても許されるんだという自分の傲慢さを見せつけられたようだ。恥ずかしい。カメラをカバンの中にしまった。

  その駄菓子屋を出て、再び町の中を歩き始める。今度はカメラを構えること無く、自分の目で平和なラ・パルマの町を記録していくのだ。感傷的になってしまったかな。ありふれたとはいえ、この町の姿をネガに形を残さないとはプロフェッショナルを自負する者にとって失格かな?先ほどの見慣れた路地が違う形となって見えてきた。嘘みたいな話だ。でも本当にそう感じる。誰かに分かって欲しいなあ、この気持ちの変化を。再び疲れが全身を襲ってきた。歩き回るのをやめ教会の前の公園で昼寝をすることにした。ゴツゴツしたカメラバッグを枕に、木漏れ日の中、ベンチの上にゴロンと横になった。さわやかな風を頬に受け、いつの間にかぐっすりと寝入ってしまった。

「 ぼくが愛したのは、かつても、いまも、あなたのその快活な精神でした」、とロバート・キャパは、2人の仲が終わりを迎えようとしていた時の手紙に書いている。「そして、それは一人の男の生涯の中でそういくつも出会えるものではないのです。」(『キャパその死』リチャード=ウィーラン沢木耕太郎訳)
夢うつつで考えていた。 ─ 私が彼女に惹かれたのは、彼女自身でなく、彼女の生き方そのものではなかったのではないだろうか。自分の生き方を彼女のそれに重ね合わせようとしていたとも言える。常に前進しようとするその姿に自分の「あるべき姿」を重ね合わせていたのかも知れない。彼女とは一緒になることはできない。それが故、惹かれていたのだろう。私の性格からして一つのものに執着することはできない。だからこそ、いったん彼女を手にいれてしまって(?)、安心することが恐かったのだ。簡単に手にいれられないからこそ、追い続けるという生き方もあるのだ!もし彼女が自分の気持ちに答えてくれたとしても、それに答え続けていく自信は、はっきりいって無い。彼女に対する気持ちはこのままずっと叶えられない方がいいと思う。もっともあと数年もすればこの考えも変わるだろう。そう、逃げるように期待する方がいいのだ。いったん彼女をこの腕に抱いてしまったら、その彼女の肉体(知的で、健康な女)にこだわり続け、もう一度その肉体に触れてみたいという欲望を持ち続けてしまうのではないだろうか。依然として深く関わることへの恐れを抱いており、また二人の関係をどのような方向に持っていったらよいかわからなかった彼(自分)は、お互いに後悔することになりかねない一時の情熱に駆られた行動をとることを、彼女に思い留まらせた。( 彼らは互いに相手を欲していたが、互いに相手が受け入れらえない条件を突きつけあっていたのだ。( 私は彼女を欲しているが、それ同時に彼女を受け入れられない条件を、受け入れることの拒否条件を、自分の中に作り出している)・・・なんか、人物が入り乱れた、混乱した自分の正直な姿をぼ〜っとした頭で考えていた。

3月7日
 日本から来た大学生のM君とスラム街へ行く。彼は去年もエルサルバドルを訪れ10日間ほど滞在していた。今回は3月2日のFMLN軍の移動を見に来たと言う。ゲリラたちの活動ついてに興味があるらしく、3日ほど前にもグアサパのFMLN軍のコンセントレーションキャンプに行っている。しかし、彼もスペイン語があまり得意でないし、FMLNに強力なコネクションがないため満足いく出会いにはならなかったらしい。3日後、他のキャンプに行き十分納得いく訪問にしたいと言っている。長倉洋海氏や太田昌国氏の本でエルサルバドルに関心を持った彼は、わざわざエルサルバドルまで足を運んできた。4月からは就職先も決まっている彼は、フリージャーナリストという仕事にも関心があるらしく、私の経歴や写真の技的術なことについて詳しく聞いてくる。今日、彼をスラム街へ誘ったのも理由がある。どうやら彼はゲリラたちの活動だけに目がいっているらしく、ゲリラ側の主張している内容に注意がいっていない様子である ─ 目にあまる貧富の差−それはスラムを訪れてこそ理解できるのではないだろうか。ゲリラの派手な活動は人の目を引きつける。だが、その活動の背後にある主張を読み取らなければ・・・。

  停戦後、ゲリラ側と政府側は完全に戦闘を止めている。国連平和条約監視団(ONSUL)も効果的に機能しているようだ。先週グアサパのFMLNのキャンプを訪れたロイータのコリーンによると、FMLNゲリラたちも、あまりにものんびりしていてニュースにならないそうだ。内戦を報道していたAPもロイターもN.Y.Times も派手な仕事がなくなってしまった。彼らは半ば失業者となってしまった。だがしかし、エルサルバドルの人々にとっても国家再建という長い道のりの仕事が待ち受けている。

3月8日
  同宿のM君と連れだってラ・フォルタレサへと向かう。 大通りを西へ歩いていくにつれて辺りの様子がおかしいことに気づく。 通りはサンサルバドルのダウンタウンへ向かう中心的な大通り。平日は車の量が多い道路。だが今日はいつもの車の量が見られない。日曜日だからといってもこれは少なすぎる。その訳はすぐに判明した。シュプレヒコールとともに、大通りいっぱいになって人が歩いて来る。何が何やら分からないうちにカメラを取り出し、とりあえずシャッターを切っていく。はちまきをしたり、旗を持った人たちのデモ行進だ。アメリカではよく見かける、ありふれたデモ行進だが ここエルサルバドルではその意味が全く違う。勇気ある行動の一つだ。配っているチラシをもらい何の行動か確認する。そうか今日は・・・か 。なかなかやるじゃないか。彼女たちは、2月1日の平和条約発効のFMLN兵士たちと同じルートを進んでいく。集団の中には、男の人の姿も、外国人の支援者の姿も、日本からの平和の使節団だろうと思われる僧侶たちの姿も見かける。 その集団の中に、スチトトの山の中で会った女性兵士と出くわした。その時、彼女は迷彩色の戦闘服を身につけていたのだが、今眼の前にいる彼女はティーシャツにジーンズ姿だ。なんだかうれしくなってくる。一歩一歩平和と自由の国に向かって進んでいるようだ。

 ラ・フォルタレサへはもう何度となく来た。もう気負いすることなく路地へと入っていく。川の向こうは・・・ という軍事施設だ。共同の水道で水汲みを待っている子供たち。洗濯をしている女たち。家の中ではハンモックに寝転がっている人も多い。思わず心がうきうきとしてくる。いつものように首からカメラをぶら下げ、気の向くまま細り路地を歩いていく。出会う人には 「オーラ」と声をかけながらその場の雰囲気を楽しむ。 こんな時が好きだ。見知らぬ所で、見知らぬ人との出会い。ただの通りすがりの気楽さ。何の責任もないということの気楽さ・・・。

 私は自由気ままに歩き回り、好き勝手に写真を撮り歩いていく。その姿を見たM君もカメラを取り出しファインダーをのぞき始める。好奇心でいっぱいの子供たちに取り囲まれた彼は本当に嬉しそうに写真を撮っていく。水汲みや洗濯をしていた大人たちも笑みを浮かべながらその様子を眺めている。「エルサルバドルの人々とこのような出会いがしたかった」、とM君は話す。スラム街の人とは大阪や神戸の下町の人と話をする感覚で対することができる。慣れてしまえばありふれた生活の一部なのだ。
  だが、我々の生活とは異なるところがエルサルバドルの日常生活の一面にはあった。それは銃に脅えるという生活だ。そして今も存在する。もちろんボストンやニューヨークのような大都会における犯罪者による銃の脅威ではない。この国に生まれて権力を持たない者の影につきまとう恐怖。24時間の緊張。ゲストハウスのベッドで寝ていても、町の中を歩いていても、バスに乗っていても、どこにいても感じる恐怖と緊張。自分のようにただの通りすがりの者の心の底にさえ感じる恐怖心。権力による抹殺。個人では抗いようのない力が常に存在している。

 自分はいざとなったら逃げる所がある。だが、エルサルバドルのスラムに住む彼らはそれがない。いやでもこの地で生活しなければならない。そして、そのこと自体がありふれた日常生活になっている。権力の恐さを改めて感じる。 自動小銃を抱えた二人連れの兵士が現れた。兵士の姿を見るのも慣れっこになったのだが、ここ、貧民街の狭い路地の中で会うとやはり緊張してしまう。停戦直後、 貧民街をうろついていた時、路地の中設けられた監視所の兵士たちに冷たい視線を投げつけられたのを思い出した。顔の表情や身体の姿勢を変えず、眼の動きだけで一挙一動を監視する、なめるようなな眼つきを背中に感じた。冷たいモノがゾクゾクっと背筋を走った。どこへ行くにも兵士たちの視線がしばらくの間背中にへばりついていた。自分でも知らない間に息を止めてしまい、意識して呼吸をするのさえ意識しなければならないほどの緊張感だった。今、兵士を前にして、その時の緊張感がよみがえってきた。

 ラ・フォルタレサで出くわした二人の兵士はすぐ近くの家へ入っていった。 そしてその家からは二人の幼い子どもたちが出てきた。兵士はその家の一員なのか、あるいはスラムの捜索なのかよく分からない。出てきた子どもを撮すふりをして兵士たちの様子を撮影してみる。レンズの角度を変えながら精一杯の情報を撮し込んでみる。ファインダーを覗いて観察してみる限り、その兵士達は家族の一員ではないようだ。何か気になるのだが、ずけずけと詮索するわけにもいかない。ただ子ども達の様子からそう切羽詰まった状況ではないみたいだ。あまり深入りしてとんでもないことになっては仕方がない。よけいなトラブルは避けるのが今は賢明。全てはそういう事だ。

  今日はいつになく気合いがはいっている。迷路のような路地をずんずんと入っていく。出くわす場面を次々とネガに焼き付けていく。さいころギャンブルにふける男たち、裸足で走り回る子どもたち、ひなたぼっこをする娘と親父。 こんな所でいったい誰が買い物をするのだろうか ─ 路地の角で野菜を売る老婆。 夕暮れ近くの日差しはオレンジ色に輝いている。夕陽の光を浴びて裸の上半身を真っ赤に染めた親父さん。彼は二人の娘と一緒に写真におさまってくれた。とうとう行き止まりの川の端までやって来た。崩れかけの家の窓から子どもたちが顔を出す。バシャ、バシャとシャッターを切っていく。今日はもう満足感いっぱいだ。スラムの入り口でM君を待つ。階段をのぼりきった所でボーとしていた。なんの気なしにトタンの屋根を眺めおろしてていると、灰色の鳩が一羽背を向けてその屋根の上にとまっている。なんだか悲しいなあ。あまりにも絵になりすぎる。

ラ・フォルタレサの協同の水汲み場にて。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
スラムで会う子どもたちは明るく、カメラの前でポーズをとる。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
貧民街の路地裏で遊び回る子どもたち。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
スラム街の家の一つに政府軍兵士が入って行った。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)

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