『 救世主の国から 』 8

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              

2月27日
  2月15日以来このノ−トをつけていませんでした。その間にも様々な事がありました。考えるべきこともいくつも思いつきました。
その1、中産階級が思ったより多く存在しているこの首都サンサルバドルで、今、自分のしていることにどう意味づけをしたらいいのだろうか。  
その2、常に孤独を愛し、それと対峙するのに快感をおぼえ始めてきた。そういう自分の生き方、そのものについて。
その3、人の為だという大義名分で始めたこの旅も、結局は自己満足の為だとうことに改めて気づかされたこと。
その4、そうは言いながら、現代社会にとけこめないない自分を感じながら、なおも希望的にその社会の前進に少しでも貢献したいという思い入れがあること。
 
  要は、「人生において何が満足かということを考えますと、どんな生活をしていても、その人が自分の生き方を自分でこれにしようと思って精いっぱいそれに賭けていけば、その人はそれで満足を感じると思いますし、それでいいんじゃないかとわたしは思います」(植村直己『冒険と人生』)ということにつきるなあと思う。これまでも精いっぱい走り続けてきたし、しんどい、しんどいといいながら これからもがむしゃらに走り続けていくんだなあ、と感じてしまった。

15日からのメモを見ると、
2月16日
首都の中でいちばん大きい貧民区、しかも最高級住宅街とまさに隣合わせにある(通りをたった一つへだてているだけ)スラム街、ラ・フォルタレサとラ・パルマスへ行ってきた。

2月17日
 午前中、国連の事務所2ヵ所を訪問。ユニセフはあまりいい対応をしてくれなかった。しかし、もう一つの国連機関PUNDはとても好意的で、チャラテナンゴ州にある支部を紹介してくれた。午後は地図を買いにへ行く。国内地図を買うにもパスポ−トを見せなければならないという状況に、この国の厳しさに変わりはないと思う。やはり停戦が成立したといってすぐに開かれた国になるには無理があるようだ。もっとも、詳しい国内地図と市内地図が手に入ったからには、これから少しは活動しやすくなるだろう。

2月18日
 憧れの地チャラテナンゴへ行ってくる。『裸足の医者内戦エルサルバドルを行く』(フランシスコ=メッツイ)を読んで、一体どんな所だろうかと頭の中を想像でいっぱいにしていた所だ。バスナンバー125で片道約2時間半かかった。思ったより小さな町だ。町の中心に位置する教会の横には軍のベ−ス基地がある。そして、町のなかあちこちに兵士の姿が目に付く。しかも、人々と軍とのつながりは(町の中心においては)強く感じる。PUNDの事務所に行ってみるが責任者は、(1984年に初めて和平の話し合いが開かれた街)ラ・パルマの祝賀会に出向いていって留守。秘書に次の金曜日(21日)に会う約束を入れてもらう。仕方なく、町のメルカ−ド(市場)をぶらぶらと散策してみる。小さな市場。ふらりと入ったハンバ−ガ−屋さん、メキシコから来た国連のPKO部隊のオフィサ−3人がハンバ−ガ−をぱくついていた。近くの小・中学校がら楽しそうな音楽が聞こえてきた。門の中をのぞいてみると、お祭りらしく、ディスコ大会が催されていた。校長先生に頼んでその様子を写真に撮らせてもらう。

2月20日
 アルベルト博士を訪問し、次のスケジュールを聞く。週末には、サンビセンテ州の村へ2泊3日の予定。それに同行することになった。博士と別れてからすぐ、人権擁護委員会( )を訪問し、そこで働くアメリカ人ボランティアに現在の人権状況について話を聞く。停戦後、人権侵害は激減し、停戦期間中はこのような状態が続くであろうと、かなり楽観的な様子。しかし解決されなければならない問題はまだまだ山積みされている。特に、停戦中に起こった多くの虐殺事件の弾劾をどう進めていくかが難しいそうだ。軍関係の抵抗は相当強いものだと考えられる。

  午後から、#8のバスに乗って49 にある貧民区、・・・ へ行ってみる。もうスラム街回りはうんざりという感じ。貧困を見るのはもうあきあき。しかし、それを見続けなければ・・・・・。

2月21日
 チャラテナンゴ再訪問。10時にPUNDのディレクタ−に会う約束のため、朝6時に起床し、東バスタ−ミナルへ急ぐ。サンサルバドルから北へ真直ぐに続く見慣れた風景を車窓の友とする。9時半頃チャラナンゴテ到着。ハンバ−ガ−ショップで朝食を済まし、PUNDの事務所へ直行。しかし10時になってもディレクタ−は現われず、そのまま2時間以上もまちぼうけを食わされてしまった。「約束はどうなったんだ。何ために必死になって早起きをしてきたんだ・・・・・」 ディレクタ−に会うやいなや、PUNDが援助しているコミュニティ−を見学したい旨を伝える。あっさりと「OK」の返事が返ってくる。

  午後1時チャラテナンゴを後にする。チャラテから奥に入ったサン・ホセ・ラスフロ−レス、そのまた奥の無人になった農村を見学。そのままその農村を通りすぎ、ガタガタ道を車で走り続けていくと、突然、すでに廃村と化してる場所に大型のブルト−ザ−が何台か出現。すぐ向こうは隣国ホンンジュラスだろうか。山奥には不釣り合いの、非常に幅の大きな道路が整備中である。一体何の為のものだろうか。 無人の農村への往復途中、FMLN軍のコンセントレ−ションキャンプを通った。そこにいる兵士たちは今まで自分が会った兵士たちとその印象が異なっていた。車の中から見ただけだが、目つきが鋭い。今すぐにでも再び戦闘を始めてもおかしくない、少し緊張した雰囲気を漂わしていた。

  サン・フロ−レスでの子供たち、村の人々、そしてFMLNゲリラたちの様子をしばらく間撮影し、そのまますぐにチャラテナンゴの事務所へ戻る。ディレクタ−のはからいで、首都の北、・・・ に建設中の新しい村を見学させてもらい、そのまま車でサンサルバドルまで送ってくれることになった。首都サンサルバドルから北へのびる道路。もう見慣れた大好きな風景の一つだ。特に、夕暮の太陽に照らされた一本道は最高だ。砂糖きび工場へ向かう大型トラックのコンボイ。「ザア−」と砂のように流れ出る砂糖が工場の外からも見ることができる。工場の前には、目をぎらぎらと輝かし、荷降を待っている運転手たちがいる。お兄ちゃんたち元気かい?」と思わず声を掛けたくなるような雰囲気だ。彼らの真っ黒に汚れた身体。精一杯生きている。「俺も負けずに生きるぞ」。なんとなく気を引き締める。

 ゲストハウスに戻り、何気なく新聞を見る。なんと、ダビッドソン死去のニュ−ス。数々の誘拐、暗殺にかかわり、「死の軍団」の影の支配者であるダビッドソン。その彼が死んだというニュ−ス。ニューズウイークの中南米版 は、「停戦を迎えた国と右翼の首領の死」と報じていた。いよいよ新しい時代の始まりだろうか。

2月22日
  ロイタ−通信のコリ−ンに電話をし、ダビッドソンの死去に関して、何か変わった動きが今日あるかどうか情報をつかもうとする。だが、なかなか彼女を捕まえることができない。緊急に、でシンシアに連絡をしてみる。彼女によると今日、市民を対象にした追悼のミサが教会であるという。運良く、その教会へはゲストハウスからバスと徒歩でいける距離だ。カメラバッグにフル装備の器材を詰め込む。担いでみるとバッグのストラップが肩に食い込む。かなり重たい。フィルムもいつもより多めに持つ。

  ミサは正午開始。10時すぎから人が集まり始めてきた。報道陣も多く来ている。その中にAFPのユリの姿もあった。彼と力強く握手をする。彼は教会の前のフェンスによじ登り、人々の集まる全体像を写そうとする。私はというと、いつものような図々しさを発揮し、教会の入り口の真正面のベストポジションを確保する。しかし、今日の取材は少々緊張する。なにせ右翼政党・ARENAの元党首で、殺人部隊・死の軍団と呼ばれたグル−プを 操っていた親玉ダビッドソンの葬儀の撮影だ。トラブルには十二分に気をつけなければ。

  昼前にもなると、教会一帯は群衆でいっぱいになった。道路にも人があふれている。ほとんどがダビッドソンやARENA政党の支持者たちだ。生前のダビッドソンの写真をパネルにしたり、ARENAの文字の入った旗をふりまわしているのも多くいる。しかし、それにしてもよくこれだけの多くの人が集まったものだと感心する。もっとも、ARENAの支持者たちの身装を見てみると、お金を持っている人々が多いんだなあと簡単に想像ができる。思わず、「おまえら、ほんまにな、いい身分だな。ええかげんにせえよ」と心の中で毒ついた。車の中からダビッドソンの棺が運びだされてきた。担ぎ手は、サングラスが似合いすぎる強持ての男ばかりである。カメラに超広角のレンズを付けているために、どうしても近寄って撮影体勢にはいらなければならない。知らぬ間に一歩、二歩と前に出てしまった。もう混乱のなかの撮影だ。「チ−ノ(東洋人野郎、という意)、邪魔だ、どけ」、「あっちに行け」、と罵声を浴びながら撮影を続ける。前に出すぎたために棺を担いでいる男にぶつかってしまい、その男のサングラスが歪めてしまった。おお、怖い。

 教会から までの大行進。 幹線道路のJuan Pablo Uに架かる陸橋の上からその行進をとらえようとしていた。その時、上空から軍のヘリコプタ−から撮影妨害があった。低空飛行で風を巻きおこし、あたり一帯を埃まみれにする。目も開けていられない。鼻と口を手で覆う。思わず、「うおりゃー」と叫んでしまった。急いで撮影を止め、墓地へと先回りすることにした。重たいバッグを持って、裏道を走るに走った。墓地が近づくにつれ警官の姿が目につき始めた。駄菓子屋でコカコ−ラを2杯分ビニ−ル袋に入れてもらい一気に飲み干す。炎天下を重たいバッグを持ってのマラソン。酸素が足りない。頭がガンガンしはじめた。吐きそうだ。墓地のゲート前は人込みであふれかえっている。その人の渦をかき分け墓場の門にたどりつく。警護の兵士にプレスカ−ドを見せ、中に入れてもらう。道路と墓地を隔てる壁のうえによじ登ろうとする。だが入り込めるスペ−スがない。門の正面の良い場所はすべて見物人に取られてしまっている。仕方なく正面から離れたところにわずかな隙間を見つけ、そこによじ登ろうと試みる。首から下げたカメラと、重たいバッグで身体の自由がきかない。と、その時、壁の上から手が差し伸べられた。毛色の違った奴がもがいている姿を見てかわいそうに思ったのか、一人のおじさんが、この私を引き上げてくれた。

  壁の上から見る光景。ここでも、これだけの人があのダビッドソンを支持しているのかという驚きであった。それもごく「普通の人」が多かったのにはショックであった。エルサルバドル在住のアメリカ人から、ダビッドソンは権力者としてそのカリスマ性に人気があると聞いていた。特に教育を受けていない人々により人気があるともいわれるそうだ。ARENA党の幹部や現大統領 に担がれたダビッドソンの棺が到着。大歓声があがった。門の中に担ぎこまれる棺。墓場の門が閉じられる。しかし、騒ぎはそれでは収まらない。何かの合図で人波が動いた。門の外に押しだされていた人々が壁を乗り超え 墓場の中になだれ込んできた。あっという間の出来事だった。その人の流れはしばらくの間止まることがなかった。次々と人が続く。おじさんもおばさんも我を忘れ、壁の上の鉄の柵を乗り越え、ダビッドソンの埋葬を見ようと駆け出していく。いい加減にしろ。もう写真を撮る気力はなかった。「どうにでもなれっ」という気持ちにだ。頭がガンガンとうずく。重たく疲れ切った身体を壁の上から降ろし、ゲストハウスに足を向ける。「くそっ」、気力だけでは写真は撮れない。その気力もなくなった。今はただ眠りたい。それだけだ。

2月28日
 バスを何回も乗り間違え、やっとの思いで旅行ガイドブック推薦のロス・チョロス滝へとやって来ました。ガイドブックによると、この美しい渓谷に4つの滝があるという。今日は気分転換のため遠足気分でやって来た。だが実際、 ロス・チョロスを目の前にしてみると、滝とは名ばかりで、落差が1メートル位の川といったところだ(乾季のためかな) エルサルバドルには「観光名所」と呼ばれる所は本当に無いのか。ゲストハウスで一緒になったドイツ人が言うには、「家族を連れて動物園へ行ったのだが、そこには象一頭、ライオン2頭、かば一頭、そしてもろもろの動物たちだけだった」と言う。彼らは明日にもコスタリカへ向けて出発してしまうそうだ。観光客も素通りしてしまう現実がここにもある。ガイドブックにはあと何ヵ所か「観光名所」が書かれてある。これから、暇を見つけて訪れてみよう。

 午前中、シンシアの計らいで、現地の新聞 (左派系)の編集者に今後のエルサルバドルの進む方向について話を聞きに行く機会を得た。この新聞社( El Latino )、昨年の2月の始め、「左派」ゲリラによって社屋に火を放たれ、印刷機器やタイプライター等の器材のほとんど消失したという。アメリカのボストングローブにもその放火記事が大きく載る程であった。約1年後の現在でも、編集・印刷をしている所は、新聞社というより工場といったという感じで、ビルの建物自体外から見ると、新聞社というところは全くない。編集者は忙しい身にもかかわらず(昼からFMLN軍の大移動を取材に行くそうだ)・30分という約束を大幅に超過して、エルサルバドル国内の土地改革、経済問題、労働組合の問題などを1時間以上にわたって話をしてくれた。最後に、「この新聞の発行部数は」と聞くと、「約8000部」と答えてくれた。しかし、間をおかず、「この国では、人の話は60パーセントの割合でしか真実が含まれていないよ」と笑いながら付け加えてくれた。

2月29日
  アルベルト博士の事務所からの紹介で、市内の・・・ という所で行なわれている学習会へ見学に行く。 この学習会はサンサルバドル市内のコミュニティで活動している人々を対象にしている(実際は家庭の事情の為に学校で勉強ができない人を対象にしているようだ) 12名の参加者のうちわけのほとんどが十代の若者である。だが、その中にもおじさんやおばさんの姿も見える。今日の主題は消化器官の基礎知識、寄生虫、アメーバ等についての身体学習であった。朝9時から予定の時間を1時間オーバーして午後6時過ぎまでつづいた。今日と明日の2日間の学習会である。でも十分に理解できないスペイン語。そのために2日間少々退屈してしまった。

  ゲストハウスに戻ってみると、日本から来たという大学生M君に出会った。話をしてみると、3月2日のFMLN軍の武装解除と移動を見に来たらしい。彼は去年、エルサルバドルに約10日間ほど滞在していたらしい。だが、その時は、町を歩き回るぐらいで何も得るところがなかっという。そのため、今年は少し突っ込んでこのエルサルバドルを見て帰りたいと話してくれた。日本でこの4月からの就職も決まっており、学生生活最後の思い出にしたいという。グアサパにあるFMLNのコンセントレーションにも是非行きたいそうで、車の手配をどうしようかと迷っているところだ。自分も3月2日の停戦条約第2段階の兵力削減について気にかかっていた。明日にでもさっそくロイター通信の事務所に行ってみることにするか。

3月1日
  報道センターの中心でもあるカミノリアルホテルへ行ってみて驚いた。
多くあった報道関係のオフィスがもぬけのからであった。2日前にコリーンに電話をした時、オフィス移動という話は聞いていたがこれほど素早い撤収だったとは。平和が訪れたエルサルバドル、一泊数万円もする、この国一番のホテルの部屋を借り切って事務所とするのは、経費の無駄使いということかな。AP、ロイター、NBC等の報道機関が2階の廊下をはさんで10室以上もの部屋を占めていた。整然と並んだドアは、ネームプレートがはずされ、その跡が痛々しい。ネームプレイトが残っていたのは・ や・ の2つだけであった。この2社さすがとしか言いようがない。でも遅かれ早かれ・ や・ もカミノリアルホテルから撤退するのだろうか。

  コリーンに電話をしてみるが、電話番号も変わっているようで、返事は全くなし。シンシアに電話をして、新しいロイター通信のオフィスを聞き出す。なんでも、今までカミノリアルホテルにあった報道機関は全てラ・カサス公園近くに位置する同じビルに移ったそうである。シンシアによると、今日コリーンに会う予定があるので、3月2日の武装解除の動き、FMLNのグアサパのコンセントレーションに行きたいという希望を伝えてもらうことにした。あとはコリーンからの電話待ちだ。

 午後からは、太陽が照り付ける中、ただひたすら歩き、アントニオ・アバドへ行ってみる。アスファルトは熱く、歩きながら目の前が真っ白になってくる。もっともアントニオ・アバドは「撮影場所」としては満足いくものではない。そのため、いつものようにただ町の様子を見ながら歩き回るだけにする。

  アントニオ・アバドの後、貧民区の一つである・・・ を訪れ撮影をする。通りで洗濯する人、家の外で勉強する子供たち、何人もの子供たちが写真を撮ってくれとせがむ。家の中から障害を持った子供を抱えた母親が出て来て、是非この子の写真を撮ってくれと頼む。 ゲストハウスへ戻る途中、久々にメルカードの中を歩き回った。だが、日曜日ということもあっていつもの賑やかさはない。最近身体の調子が万全でない。疲れがたまっているようだ。とりあえず身体を休めることを優先したいものだ。それにしてもここ一週間、やけに喉の痛みが続き、咳がとまらない。その咳のため、夜も満足に眠れない。

3月2日
 頼りにしていたコリーンからの電話はなし。試しにロイター通信の新しいオフィスへ行ってみる。オフィスの中は新しい机は入っているものも、コンピューターや電話の接続はまだ。部屋の中は全て整備中で乱雑としていた。コリーンはどうしようもない、といった状態。彼女によると、オフィスがこんな状態なので仕事は全く始められないということだ。FMLNの動きはどうなっているのかと尋ねると、「あまりたいした動きはなく、通信社の仕事として写真になるようなことは何一つない」ということだ。今日のFMLNの大移動もたいしたことがない」という。こちらは車がない身。それ故、もし彼女の取材に同行できて写真が撮れるならと思っていたのだが、彼女の反応からどうも取材の同行は期待薄のようである。それに、何となく素っ気ない対応をされているような気もする。

 昼過ぎ、国家再建について、FMLNの記者会見を撮影の為アラメダホテルへと出掛けて行った。想像していたよりもこじんまりとした会見だ。テレビ関係の取材は2〜3社きていたが、新聞関係の取材はどうやら一社のみ。会見にはFMLNのスポークスマンが来ていたが、4人とも全員私服のため、一見すると何の記者会見かわからないような状態であった。

 ボストンにコレクトコールしてみる。UPSで送ったフィルムが無事届けられたかどうも心配であった。特に今回送った分はゲリラを撮影したフィルムを全部入れていたため気が気でなかった。安心したことに、初回の郵便を使った分と、今回のUPSを使った分も何の不都合も無しにボストンのオフィスへ届けられたという返事。原稿もネガもボストンに戻るまでの分、充分にあるようで、もうエルサルバドルから送る必要はないとのこと。

 午後からエルサルバドルの公立病院中心、サンサルバドルの代表的な病院( ロサリオ病院)を訪れ、病院取材の約束を取り付ける。病院を取材したいと言った時、シンシアもコリーンもこの病院を勧めてくれた。噂によると、薬不足・ベッド不足が病院の慢性的な問題となっているという。何でも一つのベッドに2人の患者が寝ているそうだ(それがエルサルバドルで一番の国立病院の実態だ)

 病院の院長に会い、「エルサルバドルの停戦直後、国家再建を取材しているのだが、この病院もその一環として見学したい」、と申し込む。ボストンからのプレスカード、エルサルバドル政府発行のプレスカードを見せて身分の確認を得る。停戦を迎えた今、世界の目はこの国から離れつつある。だが今こそ援助が必要な時。偽りのない本当のエルサルバドルの姿を世界に向けて発信しなければならない。「院長、あなたの『イエス』という取材許可がこの国の何かを変えることになるかも知れません。そして、何人もの人を救うことになるかもしれないのです。わたしは貧乏で非力な一ジャーナリストにすぎないが、私は私なりの全力を尽くしたい」、と訴える。院長はじっと私の目を見つめて、真意をはかっているようだ。どうも院長はどのような記事なるのか心配なようで、出来上がった記事を読んでみたいという。しかし、残念ながら、発表は日本人向けの「日本語」の記事だ。しばらく考えた後、それじゃあ仕方ないなあというような顔をして、なんとか 明後日、午後2時の取材「OK」の返事をしてくれた。院長との交渉は、クーラーのきいた部屋で、汗びっしょりになりながらスペイン語でやった。 やればできるんや。

3月3日
 首都・サンサルバドルの北、バスで約30分、 ラ・アギアレスの町へ行った。取りたてて特徴のある町ではなく、メルカードの撮影をするにとどまった。しかし、初めて訪れる町、ただぶらぶらと歩き回るだけでも「緊張感」があり、ゾクゾクとするものだ。ここ数日、活字に飢えてきた。ボストンから持ってきた本や新聞の切りぬきは嫌というほど、何度も何度も読み返した。わざわざカミノリアルホテルまで行き、 雑誌やマイアミヘラルドを買い、隅から隅までむさぼるように目を通す。

3月4日
  午前中いっぱいかけて、昨日買ったニューズウイークを再び読み返す。午後からはロサリオ病院の取材がある。久しぶりの本格的な取材のため少々緊張している。質問の要点をチェックし直す。約束の2時5分前に病院のオフィスに到着。院長のはからいで英語の話せるスタッフが案内役について来てくれることになった。彼の説明に従いながら、病室を一つずつ見て回ることにする。病室は全て大部屋。野戦病院のような雰囲気で、ベッドが25くらい入った宿舎が中庭をはさんでいくつも並んでいる。やはりうわさ通り、患者数が多い一般病棟ではベッドの絶対数が足りないため、2人で一つのベッドを共用している姿が見られる。だが、病棟によって空きベッドが幾つか見られた。「これはどういうことですか」、と尋ねると、「患者を受け入れたとしても、その人たちを治療する器具や薬がないのですよ」と答えが返ってきた。これらの空いたベッドを一般病棟用の患者に回すことをできないのだろうか。その疑問を案内役の医師にぶつけると、「患者は病気ごとに分けられ、それぞれの病棟を担当している医師も異なり、病の違う患者を同じ所に入れる訳にはいかないのです。あれもこれも、なかなかうまく運びません」ということだ。なんとなく不合理だなあという考えだ。これもこの国の抱える管理主義一つ?病室をひとつひとつ見て回り、その場の雰囲気を感じとる。やはり病院らしく重苦しい感じが漂っている。ニューヨークに1年間住んでいた少女と出会った。名はマルレニス( )、入院して16日目。サンサルバドルのすぐ北の町アポパ出身。まだ鼻に管が通っていてはっきりと発音ができない。「エルサルバドルはアメリカとは比べものにならないくらい貧しい。そして、この病院の状況も日ごとに悪くなっているように感じる。十分な薬や医療器具もない。明るい見通しをもつことができない。できることならニューヨークへ戻りたい」と。

  停戦になったからといって、すぐに状況が良くなるわけがない。国から病院に割り当てられた年間予算は2mil コロン(約 ・・・円)これがエルサルバドルで最高の公立病院の予算である。 この予算だとこの病院は3ー4ヵ月しかもたないそうだ。無給で奉仕するボランティアの医師が何人もいる。実際のところ、これだけの規模の病院を運営していくには最低10mil コロンの年間予算が必要だそうだ。お金がない。その一言に尽きる。骨を固定する器具がない。そのため水を入れたビニール袋で重しの代用をしている。外科の治療室にエアコンディションがない。そのために部屋は蒸し暑い。しかし、治療のために窓や扉を開け放すわけにはいかない。
 病院の敷地内の一角に隔離病棟がある。コレラ患者が収容されている。もともとコレラ患者の発生数は少なかったが、どうやらペルーの旅行者が持ち込んできたというもっぱらの噂。そして、政府は国連からの補助金を当てにして、かなり水増ししたコレラの患者数を発表しているそうだ。病棟の中に入ってみると、女性約20人、男性約25人の患者がベッドに横になっている。男性患者はコレラの上に、アルコール中毒症にかかっていることが多いため治療が難しいという。コレラ患者担当の医師はまだ若く20台半ば。「コレラを防ぐための教育を施しているが、まだ十分でない。なんとかこの状態が良くなるように我々は精一杯の努力をしている」と熱っぽく語ってくれた。話を聞いている間にも病院の裏口から2人のコレラ患者が運ばれてきた。

  設備の整った私立病院に行く財政的な余裕のない人は、やはりこのような公立病院が頼りなのだ。つい先程も、3日前に心臓の手術をした少年が明日にも退院しなければならない話を聞いたところだ。退院して、薬を処方してもらったとしても、、その薬を薬局で買うことのできる人は限られている。「病院に来ることの出来ない人は死ぬしかない」、医師のつぶやいた言葉が忘れられない。

下水道わきの水汲み場で洗濯をするスラムの住人たち。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)
ベッドが足りない。一つのベッドを二人で分かち合う入院患者。
(ロサリオ病院・サンサルバドル、エルサルバドル  1992年2月)
スラム街の子どもたち。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)
サン・マルチンの市場にて。
(サンサルバドル郊外、エルサルバドル 1992年2月)
ロベルト・ダビッドソンの葬儀に集まってきた人々。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)
サンサルバドルからチャラテナンゴに向かう再定住村にて。
(1992年2月)
木の上で遊ぶ子どもたち。
(チャラテナンゴ、エルサルバドル 1992年2月)
東メルカード(市場)にて。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)
東メルカード(市場)にて。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)
首都の中央市場内に作られた教会の中で懸命に祈る老人。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月)

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