『 救世主の国から 』 7
< On the Road V > |
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─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。 しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、 この世に提示できるという希望はある。 |
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2月9日 前日の疲れのため午前中いっぱい眠る。たった一日でFMLNキャンプ3ヵ所をまわる強行日程だった。身体全体はずしりと重たい。しかし、気分は爽快である。ベッドに寝転びながら、昨日撮ったフィルムを一本一本整理していく。暖かく出迎えてくれたゲリラメンバーや難民共同体の人々の笑顔が忘れられない。 このロールには、夜明けとともに起きだしていた母親の姿が写っているのだ。そしてこのロールには、私の眼を大きな瞳でじっと見つめ返していたFMLN女性兵士のアップが残されているのだ。真っ暗な中で撮影した停戦平和のお祭りはうまく写っているだろうか。フィルムを一本一本手にとり昨日の出来事を思い出していく。十数本のフィルムの一本一本がとてもいとおしい。 午後、アルベルト博士のオフィスへと向かう。バス停でバスを待っていると、一人の女性に話しかけられた。彼女の手には「アグファ」の名の入った写真封筒が見える。話を聞いてみると、彼女はエルサルバドル大学の学生で、大学新聞を発行している編集委員の一人だそうだ。2月1日の停戦のパレードで写真を撮っていた私の姿を見かけたという。時間があれば、ぜひ大学まで来て、今まで撮った写真に目を通して欲しいという。アルベルト博士のオフィスとエルサルバドル大学は3ブロックほどしか離れていない。博士のオフィスを訪れた後、大学の新聞の事務局に立ち寄る約束をした。詳しい話は後ほどということで。 アルベルト博士に会うやいなや、彼は笑いながら、「昨日の夜中は車を押すことになって大変だったね。そんなに滅多にあることではないから貴重な経験ができたね」なんて言っている ─ ほんとに他人ごとだと思って」 ─ 彼と今後の予定と計画を詳しく聞いたのち別れる。すぐ近くのエルサルバドル大学へと向かう。 内戦が始まった時、ゲリラ支援や学生運動の中心となってきたこの大学は政府によって封鎖されていた。しかし今日足を踏み入れる大学には、噂に聞いていた弾圧の跡はあまり見られない。壁に書かれたスローガンや貼り紙は日本の大学でも見られるものばかりである。門をくぐり大学の中に入り、敷地内を歩いてみる。内戦直後だというエルサルバドルにもこういう面があるのだなあという場面に出くわす。青々とした芝生。あちらこちらに見られる男女学生のカップル。静かに回転し、水を放出しているスプリンクラー。エルサルバドルでは11月〜2月が学校の休みだ。この大学もちょうど新学年・新学期が始まったらしく、ところどころでオリエンテーションをしているグループも見受けられる。 構内のあちこちを歩いてみる。すると、はじめ受けたこの大学への印象が打ち消されていく。くずれかけたビルディングや全く使用されていないらしく、扉が封鎖されている建物も姿をあらわしてくる。新聞を発行している事務所を訪れ、朝バス停で会った女の人と話をしてみる。話のついでに、去年の暮れからの一連の平和条約締結の進展についての記事と写真を見せてくれた。FMLNのコンバット部隊やニカラグアからの兵士たちの写真。停戦の成立した2月1日の地方のFMLN基地の様子などのプリントもあった。彼女の話では、もし使えそうな写真があればぜひ買ってほしいという。 だが残念ながら、写真そのもののイメージは決して満足なものとは言えず、極めて記念写真的な作品になっているもので、ニュース性に乏しいものばかりであった。 しかもピンボケあり、そのうえプリント自体完全にお手上げの出来上がりであった。大学には十分な設備はなく、不満足な状況で現像・プリントしなければならないとこぼす彼女でもあった。この大学はエルサルバドルで最高の大学のはずだが、構内の平和になった姿とは裏腹に、今だに内戦の尾を引いている状況のようだ。 2月11日 朝9時頃、シンシア、サンフランシスコからの教会代表者2人、サルバドル在住のアメリカ人活動家、そして私の計5人でサンサルバドルの北部・クスカトラン州へと出かける。教会の代表者2人(夫婦)は、援助金としてアメリカ国内で集めたお金をどのように効果的に援助として使うかをかを調べにきたそうだ。かつて難民キャンプに避難していた人々が作った共同体を訪問するのが主な目的である。場所はグアサパから北へ向かったスチトト市の近くの村。ここの村は、停戦条約締結が発表された去年の暮れも政府軍によって爆撃が行なわれていた。すぐ近くにFMLNの強力な基地・グアサパがあり、政府軍による殺戮もかなりあったと村人は話す。村のあちこちには今だに爆撃によって粉々にされた家々が見られ、内戦がこの国に存在していたことを改めて思い起される。 道の裾には政府軍の進攻から隠れるための洞穴がいくつも残っている。そして「ここには地雷があるぞ!」という危険を報せるための暗号のための案山子も今をもって存在している。 この村に住んでいる女の人から詳しい話を聞いてみた。現在この村に住んでいる人は全て新しい住民である。かつてあった村は政府の執拗な嫌がらせと相次ぐ爆撃によって消滅してしまったそうだ。内戦の終結後、国連・民間ボランティアの支援によって、新しい人々で村を再建することになった。現在は国連等の強力なサポートと監視があるためにこの村の再建も順調に進んでいる。FMLN軍について正直な意見を聞いてみると、この辺りにいる農民は殆んどが(地主をのぞいて)FMLNを支持しているそうだ。もともと、地主の傲慢なやり方に対して組合が作られた。その組合の人々が地主によって雇われた「暗殺部隊」によってつぎつぎと消されていく状況であった。そしてその中から地主に対抗するためにFMLNに加わっていく者も出てきたし、FMLNの主張そのものが小作農民の願いそのものであると言う。「私たちは、ただ、普通の人間らしい生活を望んでいただけだ」、とその女性は優しい口調で訴えていた。 乾期のため地面は乾ききっている。暑い日差しで道は焼けている。真っ白くなった地面の照り返しで目が痛いくらいだ。木陰に腰をおろした女性をとり囲んで質問が続く。静かに語る彼女の口調がかえって凄惨な殺戮の様子を不気味なものにし、現在の平和な時をしみじみと感じさせるものとなっている。烈しかった内戦とその後に訪れた平和の組み合せ。彼女の思いが言葉の壁を越えて伝わってきた。 淡々と語る彼女の口調が現実の世界を忘れさせてくれた。いつの間にか話はうわの空になってしまい、自分自身の心の平和を取り戻していた。日本でアメリカで、、これまで忙しく動き回っていた身体と精神の疲れを一瞬であるが休めることができるようだ。忙しさを充実さと勘違いしていた自分を見つめる事もできた。常に何かをしなければならないと思い込んでいた精神。そこに入りこんだ思わぬ時間感覚。コントロールしていたと思っていた時間にコントロールされていた自分。新しい環境で得た感覚。違う環境に身をおいてこそ感じれること。 「・・・隔離、と私は書いた。何からの隔離か。自分の身辺に自分築き上げ、それをよしとし、その中に一種の安心感とこころよさとを見出だしていた、これまでの生活様式からの隔離である。慣れからの隔離である。社会的地位や、少々人に知られた名前や、経済の一応の基盤を得た安逸感からの隔離である。ふだんは別段何とも思っていなかったそれらに、『安定』の根のいかに大きな部分を置いていたかが、いま、わかって来た。そんなものは、『安定』ではないのに。そういうものからぱっさりとはなれて、一介の研究所員なって、このアメリカという土地に来てみて、はじめて、自分がいかに既成の地位や基盤に精神的にもよりかかっていたかがわかったのであった。 『自分』世界からの隔離。『自分の』生活リズムからの隔離。 人間は、生活リズムや『自分の世界』や、築き上げた地位基盤などによりかかり、それらのなかに心地よく安住する安易さから、たえず自分をふりほどかねばならぬ。空天の中に宙吊りされたような、のっぴきならぬ気持ちに、また、安逸をはなれた精神の孤独に、婁婁帰ってゆかねばならぬ。その気持ちと孤独の中でだけ、人は自分自身と出会うことができ、沈黙と呼ばれる豊饒の中で、自分の「言葉」を生み出すことが出来る。(犬養道子『マーチン街日記』中央文庫) この村を後にして次に向かったのは、この辺りで一番強力だといわれるFMLNのコンセントレーションキャンプだ。内戦終結の協定により、全国に15ヵ所のコンセントレーションキャンプが作られている。今回訪れる場所が5ヵ所目だから、これまでに3分の一の基地を訪れたことになる。しかし、今回はただ単にFMLN軍の集団を訪れるのではなく、その地域を統括している司令官とスポークスマンにインタビューするのが目的である。迷彩服の兵士たちがいる中で、スポークスマンはたった今アメリカ大使館から戻ってきたということで唯一平服だ。何人かの兵士たちとと挨拶を交わしていくうちに見覚えのある顔に幾度も出くわす。2月1日に首都のバリオス広場で停戦を祝っていた女性兵士の姿も見かけた。彼女もこんな山奥を舞台にして長い年月の間戦ってきたのか、と思うと何か感じるところがある。 司令官とスポークスマンの話を要約すると:平和条約によって停戦は実施されたが、我々は完全に安心しきった訳ではない。この条約をくつがえようとする勢力は依然として存在し続けるし、警戒を緩めるわけにはいかない。ソ連邦が消滅し、ニカラグアの左翼政権は倒れた。たしかにショックであった。だが、我々エルサルバドル人はエルサルバドル独自の道を行くのだ。例えば、ニカラグアはその政権を武力で取ることからスタートしたが、我々は違う。我々はあくまでも政治的な力で政権を取ろうとしている。この国を破壊するために、これまでアメリカは、思い存分ドルを使ってきたが、これからはこの国を再建するためにドルを使ってほしいものだ。もっともお金をいくら貰ったとしても死者は帰ってこないが・・・・・。 援助はアメリカ政権から貰うのではなく、NGOなどを通じてのものであって欲しい。そして、この平和条約はFMLNだけの力によって成立したものではない。全ての の力とエルサルバドル国内のさまざまなセクターの力の集結の努力によって成立したのだ。だが、この平和条約が最後の所まで行き着かなかったなら(10月31日の期限付き)、再び内戦が起こる可能性も残っている。残念ながら、国連もエルサルバドル政府もFMLNのコンバット部隊の存続を認めようとしない。 熱弁をふるうスポークスマンは10年近くも家族と会っていないそうだ。司令官の方はその横で一度たりとも表情を変えず淡々と話し続ける。 彼らとの話を終えて、スポークスマンと兵士を近くの村まで車で送ることにする。少し待ち時間があったため、ゲリラ兵士たちを撮影することができた。演習の合間に林の中で一人銃を分解し・整備する少年兵。サンダルばきのおばさん兵士。ここでもまたサッカーに興じる若い兵士たち。 辺りをぶらぶらとしていると、突然空からヘリコプターが一機舞い降りてきた。胴体に大きく「UN」の文字がある。ヘリコプターを使うと首都・サンサルバドルからここまではすぐの距離。だが我々は険しい山道を何時間もかけて、体力が勝負のドライブをするしかない。まさに地に這っての取材という訳だ。FMLNの状況を知ろうと思えば、乾いた土に汗をしみ込ませることがいかに大切かと学んだ。 2月12日 午前中いっぱいをかけて滞在ビザの更新手続き。陸路で入国の際、大量のフィルムを見つかってしまい、滞在期間15日限りというスタンプをパスポートに押されてしまった。一緒にエルサルバドル入りした日本の人はイミグレーションの係官に呼び出されることなく、滞在期間を限定したスタンプを押されることはなかった。本当に不思議な話だ。ビザ更新の係官との面接では、「スペイン語は理解できないから、あなたの質問は分からない。ビザを延長したいのは、ただこの国が気に入ったからもう少しいたいんだけだから。とたどたどしいスペイン語でまくしたてた。その結果、嬉しいことに30日の滞在期間可能となった。 午後からはメルカードの撮影。そこはいつ行っても、ゴミゴミして、汚くて、活気があって、楽しくて、カメラを向けても暖かい笑顔で迎えてくれるところである。今日はドラッグ撲滅のキャンペーンをしている若者に道案内をしてもらった。その上、メルカードの人々にジュースを配っているボランティアのお姉さんたちからたくさんのジュースをご馳走になった。つい調子にのってで彼女たちの写真をいつもより多めにバシャ、バシャ撮ってしまった。 エルサルバドルの道路は想像以上に汚れている。ポイポイとゴミを道端に捨てる人が後を絶たない。まるでゴミはごみ箱に捨ててはいけないかのようだ。車の窓からポイ、バスの窓からもポイ、歩きながらポイ、男も女も、大人も子供もポイ、ポイ、ポイである。現に今、ボランティアのお姉さんたちからもらったジュースのビニール袋も辺り一面に捨てられている。衛生観念が無いとしかいいようがない。それより、そんな事を考えるよりも、まず生活するのが大切なのか? もっともゴミを捨てようとしても、街の中を歩いていてもクズ入れはあまり見当らない。しかし、これにも例外はある。高級住宅街の建ち並ぶサンベニトやエスカロンに行くと、そこの街角にはいくつもクズ入れがあるのだ。理由の無い格差。その格差を推し進める権力をもった一部の人々。人間らしい生活をしようという試みはお金のある者だけに限られるのか。この悪循環はどうやったら無くなるのか。街を歩きながら無力感で悲しくなってきた。 2月13日 お腹をこわした。力が入らない。一日ぶらぶらしていた。 2月14日 身体の調子が回復しない。今日も一日ぶらぶらしていた。 2月15日 まだ身体が本調子ではない。あまり無理をしすぎないようにと自分に言い聞かせてゲストハウスを出る。。本来なら今日の午後、アルベルト博士たちと一緒にサンヴィセンテ州まで2泊3日の取材にいく予定だった。だが、何の手違いか、彼らは昨日の早朝サンサルバドルを発ってしまった。正直いって心の中でほっとした。この身体の調子では重たいカメラバッグを持って満足のいく活動はできなかっただろう。ではということで、ロイター通信のコリーンに会って新しい情報を仕入れることにする。彼女に近くの貧民街を教えてもらい、そこまでぶらぶら歩いていくことにした。 川沿いの小さな集落。カメラを首から下げ、散歩をするような調子で整然と並んだ家々の間を歩く。第一日目は姿を見せるだけで充分。撮影は無し。あまり焦っても仕方がないだろう。「時間はたっぷりあるんだ」といいきかせて。 午後からはヌエバサンサルバドル(旧名サンタクララ)へと出かける。バスナンバーは101番。かつては難民キャンプがあった所と聞いている。そこは結構大きな街で、メルカードも大きな規模を備えている。キャンプ自体は街の入り口にあった。カメラを首から下げ、ぶらぶらとしながら撮影をする。あまり自分の気に入るようなイメージが無い。どうも同じような写真になっているのではないかと思う。ただ単に町の様子や貧民街を撮るだけではなく、特に何かに焦点をしぼったほうが良さそうな気もする・・その一方で、エルサルバドルという国の全体像を撮影してみたいという気も捨てきれない。今のところどっちつかずで落ち着かない。「まあ、あと一週間くらい様子をみるとするか」 サンタテクラの帰り、気分転換のため映画を観る。2本立てで16コロン($2)と安い。” を観た。 これから考えないといけないこと ─ 想像以上に中産階級が多かったこの国で自分のしていることに意味(やりがい)を見いだせるか。農村と都市の生活環境、経済格差など・・・。 Genki出版の皆様へ: 前略 エルサルバドルから第2回目の原稿を送ります。手記の方は相変わらず誤字・脱字・迷文・乱筆、と読む方が頭の痛くなるような文面ですが、そこはどうぞご勘弁を。やはりワープロに慣れていたせいか、1時間以上ペンを握り続けると腕がだるくなり、書く気力も失ってきます。 今回は少し多めにフィルムを送ることにします。特に貴重なFMLNゲリラ達の姿を収めたネガも含まれているため、郵便はやめてキャリアサービスを使うことにしました。無事そちらに届けられることを祈ります。さて、内容の方ですが、大雑把に分けて4つになると思います:メルカードの様子、スラム、FMLNゲリラたち、そして − です。特に前者の3つは、自分で言うのもへんですが、なかなか良い イメージが入っていると期待しています。記事なしで、写真だけでも独立してものになるのも結構あるはずです。サンビヴィセンテ州のFMLNゲリラの女性兵士をアップで撮影したのが何コマかあるはずです。その出来上がりを特に楽しみにしています。 この4つの内容だけでも各々1回分の掲載量は充分にあります。それ故、次回のエルサルバドルからの便りは少々遅れます。なんとか編集をうまくして、4月の半ばまで記事の内容をもたしてくれるとありがたいのですが・・・。 先週、ビザの更新のため まで行ってきました。しかし、残念ながら希望する日数(90日)だけの日をもらえず、結局30日限りをもらえただけです。それ以後は再び、ビザ更新という手続きを経なければなりません。一応3月12日までは合法的にこの国に滞在できるのですが、次回のビザ更新がすんなりと行くとは限りません。その時は一時的にグアテマラ出国し、一週間後にエルサルバドル入りをするか、(入国を認められるかどうか分かりませんが)、あるいはそのままグアテマラにしばらくの間滞在するかも知れません、そしてあるいは・・・・ 内戦が終結したからといって一気に緊張が解けたわけではありません。地方にいくと相変わらず の姿が幅を聞かせています。エルサルバドル国内の詳しい地図も昨日やっと買うことができました。それも全国で唯一地図を扱っている (国立地理協会とでも訳すのかな)で、パスポ−ト番号を控えられ、通 し番号のついた大きく取り扱いにくい地図を高い値段で買うことができました。 和平の面では雪解けはまだのようです。 取材の方は信じられないくらいに順調に進んでいます。これでスペイン語がもっと上手く話せたら申し分ありません。ロイタ−やAFPの記者の人たちの協力、国連の2つのオフィスの人々の親切(ユニセフは例外的に冷たかった)、教会を主体としたボランティアグル−プの後押しと手助けしてくれる人がたくさんいて嬉しい限りです。数日後には人権委員会の人と、そして、現地の新聞社の と話をする予定も入っています。知らない間に人の輪が広がっていき、休む暇もありません。 エルサルバドルは、今乾期。太陽は照りつけ、重たいカメラバッグを持った身では足どりも鈍くなっています。特に正午から午後4時位までは本当に何もしたくない暑さです。しかし動かねばならない身体。そのおかげでコカコ−ラには非常にお世話になっています。いつもお腹がチャポ−ンと鳴るくらいになるまで飲んでいます。そのために何度も下痢に・・・・・。 しかし喉の渇きはいやせない。 このエルサルバドルで今のところ気に入っているのはププサ(トルティ−ヤをチ−ズや肉包んで焼いたもの)の美味しさと映画の安さです。ププサは行きつけの食堂ができそこのおねえちゃん達とも仲良くなりました。それと映画の安さ(ほとんどアメリカ映画で、1$75¢−$2で観れます)は格別で、夕方から元気な時は、映画館へと足を運んでいます。市民の足であるバスは、だいたい5−7セントの安さです。しかし、ギュウギュウ詰めのことも多く、飛び乗り、飛び降りと命がけのこともよくあります。いくつもの本(筆者は男性)の紹介では、エルサルバドルの女性は゛中米一の美人″が多いとか。ところが男である我が身の偏見と好みで言わせてもらえば、゛中米一の美人″とは言い過ぎで、とてもとてもという女性が多いです 。 そういう訳で、なんやかんやと言いながら、結構楽しんでいるのも事実。しかしながら、残りのフィルムが100本位となってしまったため、心して取材を進めていかねばと思っています。限りある予算とフィルムは大切にしなければ・・・・・。 新しいオフィスでの2度の盗難。新しいコンピュ−タ−には保険は掛けてあったのですか。とても気掛かりです。それにこう災難続きではBoston Noteの発行も遅れているのでは? あまり無理をせず頑張ってください。ボストンは今、寒い寒い冬の真っ最中なんでしょうね。想像もできません。 それでは又、お便りします。 |
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「この子の写真をとっておくれ」。中央市場を撮影中、突然声をかけられた。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月) |
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中央市場の通りでうたた寝をするおばあさん。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年2月) |
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自分のものは自分で洗濯。
(サンサルバドル市内の貧民街、エルサルバドル 1992年2月) |
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日の光のもとで一生懸命勉強する女の子。
(サンサルバドルの貧民街、エルサルバドル 1992年2月) |
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弟をあやす女の子。
(クスカトラン県内のFMLN支配区、エルサルバドル 1992年2月) |
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夕闇迫る中で遊びまわる子どもたち。
(サンサルバドル郊外、エルサルバドル 1992年2月) |
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NGO団体が支援する学習会で勉強する男の子。
(サンサルバドル市内、エルサルバドル 1992年2月) |
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男も女も自らの生活のために銃をとった。
(クスカトラン県のFMLN支配区、エルサルバドル 1992年2月) |
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暑い日が続く中、海岸での網打ち。
(ラ・リベルタード県、エルサルバドル 1992年2月) |
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