『 救世主の国から 』 6

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              
2月8日
 今日は朝早くから浮き浮きしている。援助団体であるASDIに、かつては難民として暮らしていた人々が、新たに作った共同体に連れて行ってもらことになっているからだ。午後4時出発の予定。しかし車の手配のミスため午後9時に変更になった。だが9時になっても、予定してあった四輪駆動の車は事務所に来ない。そこで、一緒に行く予定のパティ、ローリー、パブロの三人と共に近くの屋台へププサ(トルティーヤに肉、チーズなどを入れて焼いたもの=エルサルバドル風お好焼き)を食べにいく。私を入れた若い4人組、言葉はあまり通じないけれど、気さくな者ばかり、これからの2泊3日の旅は楽しくやっていけそうだなあという雰囲気だ。あつあつの、舌がとろけるようなおいしいププサで頬を膨らませ、トーキョーがどうの、エルサルバドルがどうのという会話になった。

 結局、出発は延びにのびて、翌日の朝早い3時となった(ここはラテンアメリカ、時間通りに事が運ぶと思ったら大間違いということを想いだした) その夜は、ASDIの事務所の床に、うすいうすいマットレスを敷いて身体を休めることにする。だが、隣の建物ははレストランのため、一晩中頭に響く音楽をガンガン鳴らしつづけ、こちらの建物まで振動させる。しかも悪いことに、事務所のどの部屋にも蚊が「ぶーん」と羽をこすりあわせ、攻撃してくる。ウトウトと眠りに落ちかけたら、耳元で、「ぶーん、ぶーん」といういまいましい囁き。隣で上半身裸で寝ているパブロは、何度も立ち上がってパチパチとやっている。最悪なことに、そのような状態で眠れないまま、出発の時刻である朝3時を迎えてしまうことになった。運転するパブロは悲惨である。

 事務所を出たトヨタ・ランドクルーザーは、街灯の無い通りをいくつも抜け ( これが一国の首都かと思わせる。10年近く前に訪れた中国の北京のようだ )、 パンアメリカンハイウェーを一路ウスラタン州へ向かう。時間にして約2〜3時間のドライブである。中米を貫くパンアメリカンハイウェー。名前からしてたいそうで、、いかにも立派に舗装された道路のように思えるが、実際は穴ぼこだらけのガタガタ道もかなり多い。 特に首都から東に行くにつれ道路の傷みが激しいようである。州境の橋や大きな町のあちこちには道路がかまぼこ状に盛り上げられている。その手前で、車はいったんスピードを落とし、ゆっくりとその「かまぼこ」をやり過ごす。少しでもスピードを落とすが遅れると、「かまぼこ」にぶつかった車の中は、うめき声でいっぱいになる。車中の者全員、いやというほど頭を車の天井にぶつけるのだ。この「かまぼこ」は、ゲリラの奇襲の備えて造られたそうである。ゲリラの活動が活発だった北部・東部の道路は、特にこの細工がよくみられる。

  車は、真っ暗なハイウェーをぶっとばし、サンヴィセンテ州を抜け、レンパ川の仮設の橋を越え、ウスラタン州の北の村に入る。人影も灯も無いゴーストタウンのような印象。村の入り口には、停戦を祝うFMLNの赤い旗が寂しげにかかげられている。4人を乗せた車はその村から真っ暗な山道へ入って行く。例の地獄道。しかも今度は暗さのため辺りが全く見えない状況。山肌を照らす車のヘッドライト。なんか心細くなる。F.メッツィの著書『はだしの医者内戦エルサルバドルをゆく』の状況をこの身で実際に体験し、改めて、FMLNゲリラの底力を感じとった。彼らはこんな道を、炎天下であろうが、一寸先も見えない真っ暗な星のない夜中であろうが、時には数十時間も歩き続けていたのだからすごいとしかいいようがない。その同じような道を今、私は車でたどっている。

 東の空がうっすらと明るくないはじめた頃、 ・・・から奥に入った共同体にやっとたどり着いた。たった3時間のドライブであったが、寝不足と疲労、そして厳しい山道で身体はガタガタなってしまった。しかし、ここで負けてはいけないと自分にいい聞かせ、重たいカメラバッグをもって撮影を始める。この村は、ASDIが自慢するだけあって、新しい家があちこちに建ち並び始めている。それでも、半数以上の家は粗末な造りのままである。老アメリカ人夫妻から聞いていたように、ここでも人々は家畜と同居している。豚やにわとりの糞はいたるところにあり、子供たちはその中を裸足で走り回っている。衛生状態がよくないのは明らかだ。だがしかし、これでも改善されたそうだ。しかし、村のリーダーは生活の改善よりも、この共同体には、難民キャンプにはなかった「自由」があるということを誇りにしていた。そのリーダーの女性に共同体の中を案内してもらう。

  四方に広がった村に300近くの家族が住んでいる。村はずれには大きな川が流れており、共同の井戸も何ヵ所かある。村の中心の大きな建物は学校兼集会所で、5人の女の人が算数の勉強をしていた。集会所のコシーナへ行くと、驚いたことに、2人の外国人と出くわした。一人は米国人の牧師。もう一人は、ドイツから来た建築技師で、この村にブロック造りの家を建てるのを手伝っているそうだ。

 夜明けと共に人々は動きだしていく。朝一番の火を起こす子、トルティーヤのための豆を挽く子、朝食の準備をしはじめる母親たち。鶏がけたたましい声をあげている。台所で忙しく働いているおばあさんから、しきりに何か食べろとすすめられるが、疲労のため食物がのどを通らない。やっとのことで、コーヒーとクッキーだけをむりやり胃に押し込む。コーヒーは豆を直接煮て、そのうわずみ液を飲むのがここのやり方。クッキーはこれこそ手作りといった感じで、少し土の味がする。からからののどに熱いコーヒーが刺激的である。少しだけ元気回復。そして撮影開始。

 カメラをかついで、家をひとつひとつ訪ねていく。どの家でも子供がまず好奇心いっぱいの顔で迎えてくれる。栄養が十分でない多くの幼い子供はお腹が奇妙に出っ張ている。大きな瞳でじっとレンズを見返す。そのあまりの素直さに、さすがの自分もカメラから顔を上げ、視線と視線を交え、にこっとしてしまう(言葉は上手く通じなくとも、ファインダーを通して心の会話が出来たようだ) 村の中をしばらく歩き回っているうちに、村の人の警戒心がとけたのか、「オーラ」と軽く声をかけてもらえるようになった。この共同体には2泊する予定。いつものように楽観的になってくる。想像していたより気楽にすごせそうだ。村のはずれの断崖に行き その下を流れる曲がりくねった川をのぞき込んでみる。朝日を浴びて輝く水の流れ。早朝の冷たい空気。すがすがしさで頭の中も身体も生き返えった。

 近くの村へ医療品を届けにいっていたロリー、パティ、パブロの3人が戻ってきた。パティいわく、「これからすぐに戻るわよ」と急な予定変更。先ほどた来あの道をそのまますぐに引き返すのだと思うと、「げぇー」と声を出してしまった。パティは慰めるように、「でもそこに行くとFMLNの基地があり、今日訓練をする予定のはずよ」と言う。それを聞いたとたん「行く!」ということになってしまった。それから5分後、4人は再び険しい山道に入って行った。

 約45分のドライブ。やっと目的の村に到着。大きな赤い旗が樹と樹の間にかかげられている。その赤い旗には一つの白い星が光っている。FMLNの目印だ。壁をめぐらせた学校のような建物の門をくぐって中に入ってみると、いるわいるわ、あちこちに。男も女も、青年も少年も。みんななごやかな雰囲気だ。パティとロリーは知った顔を見つけたのか、はしゃぎまわり、抱き合っている。私はといえば、今までの疲れもふっとびカメラを握りしめシャッターを切りだす。FMLNゲリラの姿を見るのはもう慣れたが、今回はこれほど多くの女性兵士を見て驚いてしまった。「こいつ、スケベなやっちゃな」と思われはしないかと内心びくびくしながら、女性ゲリラたちを中心に写真に撮っていく。でも、この可愛い(主観的ですが)女の子たちがつい1ヵ月前まで戦闘していたなんて本当に信じられない。

 武器もいろいろな種類がある。残念なことに識別できるのはアメリカ製M16、中国製AK47ぐらいで、その他の自動小銃の種類やキャノン砲がどういうものかよくわからない。銃の手入れをする者もいれば昼寝をしている者もいる。少年兵たちは木陰にかたまってトランプをしている。彼らの一人が身につけているTシャツに”バルセロナ・オリンピック”とある。その文字が妙にこの雰囲気にそぐわない。男女一組のゲリラがハンモックの中で何かささやき合っている。何だか村の集まりという感じだ。ただ彼らの手に通信機や銃火器があるという点に違いはあるが・・・。

 演習が始まり、ばらばらに散らばっていた彼らが整列する。リーダーの前に並んだ兵士たちは、先刻とうって変わって真剣な顔をしている。静まり返った中に点呼する声だけが響いている。ひとりひとりの名前が呼ばれていく。私は初めて直面する真剣な訓練を目の前にして緊張している。カメラを握り締めている指がうずうずしている。だが、しかし完全にこの状況に飲まれてしまっている。点呼は続いていく。名前を呼ばれた兵士は、決まった返事をしなければならないらしい。そのうち、返事にもたついたり、変に大声で返事をした兵士がいたりして、少しばかり笑い声が上がり、緊張した場面に変化があった。その状況の変化で自分もリラックスすることができた。カメラに付けた超広角レンズを武器に前に出ていく。点呼の声と返答の声だけがする所に、突然、「パシャ、パシャ、パシャ」という機械音が鳴り響く。兵士全員がこちらの方を向く。何人かの兵士と目が合う。にやりと笑う私。そして再び「パシャ、パシャ」 そして、再び点呼が始まった。俺の勝ちだ。自分も彼らの一部のような気がした。こうなればこちらのもの、いつものように気楽な気分で撮影をすることができる。超広角レンズのため10センチほどの距離に近付きシャッターを切っていく。兵士の息づかいを肌で感じる。隊列を整えるとき、兵士たちのあげるつちぼこりが空を舞う。その様子を下のアングルから狙うため、地面をなめるようにしてカメラを構える。ロリー、パティと目が合う。彼女たちが何を言いたいのかすぐにわかった。次の目的地へと出発の時間だ。

 せきたてられるように車に乗りこむ。次に行くのは、サンヴィセンテ州のベルリンからさらに奥に入った村。やはり地図に名前がのっていない所。道をよく知っていて、運転に慣れているいるパブロも道を間違える。しかしながら、何度となく荒れた道を通るたびに思い知らされるサルバドルの人の粘り強さ−特に村の人やゲリラたちの。彼らは入り組んだ迷路のような山道を熟知しており、その道を生活の場としている。この道を自分で体験してみて、どうしてFMLNゲリラ側が政府軍に対して勝利したか分かるような気がする。毎日、何時間もこのような道を歩くのは至難の業としかいいようがない。だが現実に眼の前で、幼い女の子もはだしに近い状態で、重い篭を頭の上に載せて歩き続けている。

 次に到着した共同体。あふれるFMLNのメンバーを目にする。どうやら共同体とFMLNとが一体となっているらしい。そして、このASDIという援助団体はFMLNと深いつながりがあるみたいだ。4人が到着したとき、ちょうどFMLNメンバー同士でサッカーの試合が行なわれていた。プレーしているのは全てFMLNの兵士たち。自分たちでユニフォームを作っているチームもある。もっともシューズはばらばら。ブーツを履いてプレーしている者もいれば、スニーカー、果てははだしに近いものまで入る。彼らがプレーしている姿を見ると、「本当に戦争なんて・・・」と思わずに入られない。近くに置かれたFNLNの軍服や自動小銃、ショットガン、通信機。プレーしている彼らとはなんと不釣り合いのことか。紺碧の空の下でボールを蹴る姿を見ているうちに、彼らが戦わなければならない、殺し合わなければならない状況を作り出している、そんなシステムに改めて怒りを感じる。笑いながらボールを蹴る者。ラインぎりぎりをゆくボールを必死の形相で追う若者。みんな私より年下の者ばかりだ。

 お昼をご馳走になる。いつものコーヒー。そして何枚かのトルティーヤ。塩がおかず。砂だらけのコーヒーとトルティーヤ。こんな山の中ではおいしく感じられる。英語を話すFMLNのメンバーの一人にインタビューしてみる。彼は以前、首都で大学生をしていた。彼は現在のFMLNの様子や、これからのエルサルバドルの未来について熱っぽく語ってくれる。司令官の時間が許せば、ぜひ彼と話をして帰ってくれと勧められた。

 疲れが出ているパブロは近くの木の陰で眠っている。自分も疲れを感じ、司令官のハンモックで少し昼寝をさしてもらう。こういう時のたった30分間の眠りは本当に深い。目をさますと、身体の疲れはすっかり回復し、再び写真を撮りはじめることができるまでになった。どうやらサッカーの試合は終わったのか、各々戦闘服を身につけ、手には銃を持ち、それぞれの任務に就けるように準備し始めている。つい先程までの若者の姿は消え去ってしまった。今自分の目の前にいるのは解放を目的としたゲリラたちの姿である。いくら内戦条約が成立したからといっても、FMLNはすぐ解体するわけではない。これまでの歴史が証明しているように、ただちに政府側の言い分を信じる訳にはいかないのだ。10月31日までに6000〜8000人のコンバット部隊は全国15ヵ所に散らばって、目を光らせている。

 再び の村に戻り、そこでしばらく休憩する。かわいそうに、パブロとロリーはあの山奥の まで車でひと走りし、人を迎えにいかなければならないそうだ。その間パティと2人で(もちろんFMLNゲリラたちと共に)近くの村で行なわれているサッカーの試合を見に行き,時間をつぶすことにする。 やはり中米らしく、スポーツといえばサッカーである。グアテマラでもそうだったが、広場があれば必ずといっていいほどサッカーゴール(らしきもの)があるのだ。

 しばらくして、疲労を顔に浮かべたパブロが帰ってきた。さてこれから今日の最終目的地、サンヴィセンテ州のサンタクララの村から、さらに奥に入った共同体に行くのだ。陽は西に傾き、まわりはうす暗くなりはじめている。目的地まで約1時間半。パブロは猛然と車を駆る。もうどんな道にも慣れてきた。お尻の痛み、背中の痛み、頭の痛み(車の天井に何度となくぶつけた)も麻痺している。そして、山の中ではこういう道が当たり前だと思いはじめた。

 相変わらず道なき道を走ること約1時間半。真っ暗な前方に明りらしきものが見えてきた。村のなかに入ってみると、もうすでに共同体あげての平和のお祭りが行なわれている。 もちろん、村人・FMLN兵士たちでおおにぎわいである。村の中心の学校らしき建物は、生バンドもはいり仮設のディスコと化していた。男も女も、若者もおじさん・おばさんも踊っている。こういうお祭りは久しぶりなのであろう、みんなの顔が笑っている。 「すぐにサンサルバドルに戻るわよ」とパティに言われているため、ディスコの中心に入りこみ、フラッシュをバチバチと光らし、この様子を写真におさめていく。何とも狭い場所、そしてほとんど照明もない。ファインダーをのぞいてみてもピントを合わすことができない(ああ、こんな時にこそ、あの壊れたオートフォーカスカメラがあったらいいんだろう!)仕方なく、レンズの絞りをできるだけ絞り、万一の為、B&W,スライド、カラーネガの3種類のフィルムを使うことにした。まだ十分撮影していないうちにパティに引き戻される「もう帰る時間よー」

 サンヴィセンテ州の山奥の村から、サンサルバドルに向けて車は出発。車の中は全部で12人。6人乗りの車。それゆえ、ぎゅうぎゅう詰めも度を超している。そんな状態の車で真っ暗な道(車のライトが照らしている範囲以外何も見えない。車のライト自体を反射するものがない。全てが真っ暗やみの中に吸い込まれていきそうな世界)を引き返そうというのだ。横でハンドルを握るパブロは額に汗をかきっぱなし。

 上へ下へ、右へ左へ、車はがたがた道を30分くらい走る。石だらけの坂道を降りはじめたとき車がガクンと止まった。
 「・・・ガス欠だ・・・」
 パブロがぽつんと言った。車の中に一瞬静寂の時が流れる。時計を見ると9時前。なんてこった。何とも言えない気分になる。一番近くの村、サンタクララまで歩いて数キロ。パブロと途中から同乗した片腕の男がガソリンを求めて歩き始めた。「なるべく早く帰ってきてくれよ!」と心の中で祈る。こんな山の中で野宿はこりごりだ。他の人はみんなこんなことに慣れているらしくおしゃべりをしたり、ラジオの音楽を聴いている。しかし、パティは「こんな山の中でガス欠になるなんてとってもいい経験ね。おもしろい記事が書るわね」なんてことをいう。
 「バカヤロー」こっちの気にもなれってんだ、と心の中で反論。しばらくして、サンタクララの方面からトラックの光がやってくる。「やった、助けがやって来た」と思ったら、そうではない。そのトラックは、たった今後にした、祭りが行なわれている村へ向かっている。パティとローリーがガソリンを分けてくれないかと交渉してみるが、彼らもぎりぎりの量しかもっていないそうだ。荷台に若者を満載したトラックは、砂埃をあげて、祭りの行なわれている村へ消え去った。これでパブロの帰りを待つしかない。

 スペイン語がもうひとつの私は、皆のおしゃべりに加わることができず、一人助手席でうたたねを始めてしまった。どれくらいの時間がたったのだろうか。祭りの行なわれている村に向かう別の車の荷台に乗ったパブロが帰ってきた。手には3つの容器にガソリンをいっぱいにしている。「やった、これで帰る」とひと安心。

 パブロがなんとかガソリンを車に移そうとする。(まず、車のラジエーター用の細いパイプをとり外す。ガソリンの入った容器と車のタンクをそのパイプで結ぶ。パイプをタンクに入れる直前、パイプの中へ思い切り息を吹き込む。そうすると気圧の関係で容器内のガソリンがタンクに流れこむという原理)パブロの口のまわりはガソリンでベタベタに汚れている。いよいよエンジンスタート。 しかし車は奇妙な音をたてるだけ。タンク内のガソリンを全て使ってしまったため、キャブレターとフィルターが乾ききってしまっている。 パブロが口でフィルターまでガソリンを吸い上げることにする。再びエンジンスタート。しかし、エンジンはかからない。今度は車を押すことにする。何が悲しくて、こんな山の中で、しかも真っ暗な道で、その上、危険なこぼこな坂道で車を押さなければならんのだ・・・。愚痴は言ってられない。力をこめて重い車を押し始める。4人がかりで1回、2回と車を押すが一向にエンジンはかからない。冗談ではない。本当に危険である。足元が見えないのだ。岩あり、あなぼこあり、何度もつまずき転けた。しかし、押し続けなければならない。500メートルくらい押したところで、勢いがついた車はひとりでに坂を下り始めた。エンジンがかかった様子は全くない。「おかしいな」と思ったパブロが車のフードをあけて調べてみる。コネクターが一本はずれている。パブロは私の方をみて「ハポネスめ」(とんでもない日本製だな)と笑いながら言った。そして再びスイッチ・オン。ブルルンとエンジンの軽快な音。 やっと気分も明るくなった。・・・・その日ゲストハウスへ帰りついた時は日付が変わっていた。
2月9日
 前日の疲れのため午前中いっぱい眠る。たった一日でFMLNキャンプ3ヵ所をまわる強行日程だった。身体全体はずしりと重たい。しかし、気分は爽快である。ベッドに寝転びながら、昨日撮ったフィルムを一本一本整理していく。暖かく出迎えてくれたゲリラメンバーや難民共同体の人々の笑顔が忘れられない。 このロールには、夜明けとともに起きだしていた母親の姿が写っているのだ。そしてこのロールには、私の眼を大きな瞳でじっと見つめ返していたFMLN女性兵士のアップが残されているのだ。真っ暗な中で撮影した停戦平和のお祭りはうまく写っているだろうか。フィルムを一本一本手にとり昨日の出来事を思い出していく。十数本のフィルムの一本一本がとてもいとおしい。

  午後、アルベルト博士のオフィスへと向かう。バス停でバスを待っていると、一人の女性に話しかけられた。彼女の手にはアグファの名の入った写真封筒が見える。話を聞いてみると、彼女はエルサルバドル大学の学生で、大学新聞を発行している編集委員の一人だそうだ。2月1日の停戦のパレードで写真を撮っていた私の姿を見かけたという。時間があれば、ぜひ大学まで来て、今まで撮った写真に目を通して欲しいという。アルベルト博士のオフィスとエルサルバドル大学は3ブロックほどしか離れていない。博士のオフィスを訪れた後、大学の新聞の事務局に立ち寄る約束をした。詳しい話は後ほどということで。  アルベルト博士に会うやいなや、彼は笑いながら、「昨日の夜中は車を押すことになって大変だったね。そんなに滅多にあることではないから貴重な経験ができたね」なんて言っている。「ほんとに他人ごとだと思って」。 彼と今後の予定と計画を詳しく聞いたのち別れる。そしてすぐ近くのエルサルバドル大学へと向かう。内戦が始まった時、ゲリラ支援や学生運動の中心となってきたこの大学は政府によって封鎖されていた。しかし今日足を踏み入れる大学には、噂に聞いていた弾圧の跡はあまり見られない。壁に書かれたスローガンや貼り紙は日本の大学でも見られるものばかりである。門をくぐり大学の中に入り、敷地内を歩いてみる。内戦直後だというエルサルバドルにもこういう面があるのだなあという場面に出くわす。青々とした芝生。あちらこちらに見られる男女学生のカップル。静かに回転し、水を放出しているスプリンクラー。エルサルバドルでは11月〜2月が学校の休みだ。この大学もちょうど新学年・新学期が始まったらしく、ところどころでオリエンテーションをしているグループも見受けられる。構内のあちこちを歩いてみる。すると、はじめ受けたこの大学への印象が打ち消されていく。くずれかけたビルディングや全く使用されていないらしく、扉が封鎖されている建物も姿をあらわしてくる。

 新聞を発行している事務所を訪れ、朝バス停で会った女の人と話をしてみる。話のついでに、去年の暮れからの一連の平和条約締結の進展についての記事とニカラグアのサンダニスタ兵士の写真を見せてくれた。新聞を発行している事務所を訪れ、朝バス停で会った女の人と話をしてみる。話のついでに、去年の暮れからの一連の平和条約締結の進展についての記事と写真を見せてくれた。FMLNのコンバット部隊やニカラグアからの兵士たちの写真。停戦の成立した2月1日の地方のFMLN基地の様子などのプリントもあった。彼女の話では、もし使えそうな写真があればぜひ買ってほしいという。だが残念ながら、写真そのもののイメージは決して満足なものとは言えず、極めて記念写真的な作品になっているもので、ニュース性に乏しいものばかりであった。  しかもピンボケあり、そのうえプリント自体完全にお手上げの出来上がりであった。大学には十分な設備はなく、不満足な状況で現像・プリントしなければならないとこぼす彼女でもあった。この大学はエルサルバドルで最高の大学のはずだが、構内の平和になった姿とは裏腹に、今だに内戦の尾を引いている状況のようだ。

深夜のダンスパーティー。停戦を祝うFMLNゲリラ。
(サンビセンテ県、エルサルバドル 1992年2月)
平和な時を楽しむFMLNゲリラ。
(サンタクララ・サンビセンテ県、エルサルバドル 1992年2月)
FMLNゲリラたち。
(サンビセンテ県、エルサルバドル 1992年2月)
政府側の条約不履行に備え軍事訓練を怠らないFMLNゲリラ兵。
(サンビセンテ県、エルサルバドル 1992年2月)
FMLNゲリラたち。
(ウスルタン県、エルサルバドル 1992年2月)
生活の為に闘ってきたFMLNゲリラ兵たち。
(ウスルタン県、エルサルバドル 1992年2月)
演習中のFMLNゲリラ(15歳)
(サンビセンテ県、エルサルバドル 1992年2月)
1980年に暗殺されたロメロ大司教の写真に見入っていた女の子。
(ウスルタン県、エルサルバドル 1992年2月)
民間ボランティアの支援で設立された再定住村。
(ウスルタン県、エルサルバドル 1992年2月)
民間ボランティアの支援で設立された再定住村。
(ウスルタン県、エルサルバドル 1992年2月)

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