『 救世主の国から 』 4
< On the Road V >
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─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、
この世に提示できるという希望はある。
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2月3日
カミノ・リアルにあるロイター通信のオフィスに行く。そこで同通信で働
いているアレックスからいろいろと情報を聞くことにする。ONSUL、UN のオフィスのアドレス、民間の人権擁護団体の連絡先、難民キャンプへのアクセス方法など。彼が言うには、ONSULの
は (旧・・・ )にあるので、そこに行っていろいろと尋ねればよい。しかし、メインの取材目的である難民キャンプのアクセスは四輪駆動の車がないと難しく、その上、難民キャンプは山奥にあり、知った者でないと絶対に道に迷うだろうと断言する。通信社自体、戦闘が止んだために地方にいく取材は殆ど無いということだ。そのため彼らの車に同乗するチャンスもこれまた無いというわけだ。しかし、車をレンタルすれば道をよく知っている者を運転手として紹介してやろうと、彼はいう。車が欲しいのはやまやまだが、先立つものが無いフリーランスの悲しさ、丁寧に辞退することにした。それではと気を取りなおし、次なる手を考える。地元のサルバドリアンのAFPカメラマンのユリに連絡を取ってみる。彼には、毎日新聞メキシコ支局のN氏の紹介で、名刺をもらっていた。最初に会った時、とても腰が低く、たいへん親しみがもてたことを覚えている。もっとも、彼はスペイン語しか話せず、こちらのスペイン語は「あれがしたい、これがしたい」というレベルで、一向に会話にはならなかったのだが・・・・・。
カミノ・リアルホテルの横の坂を、重いカメラバッグをかつぎ、ひいひい言いながら這い登り、なんとかAFPのオフィスを探しあてることが出来た。やはり第一印象というものはあてになるもので、汗まみれになっているこの私を彼は暖かい握手で迎えてくれた。
民間のボランティア団体や人権擁護団体について、彼はあまり知らなかったが、難民キャンプを主な活動先に活動している国連支部の連絡先を捜し当ててくれた。手元にあるトランシーバーで、市内あちらこちらに散らばっているレポーターや情報提供者たちにいちいち連絡を取ってくれさえした。トランシーバーで「ガーガー」とやり取りする脇で、さすがの図々しい自分も恐縮するくらい熱心に情報を集めてくれているのだ。そのうえ、ONSULのメインオフィスは・・・
にあるのだが、実際に活動しているのは別のオフィスであることもさがしだし、詳しく説明してくれた。
今日でエルサルバドルにきて5日目、地図を片手に自分の行きたいところへは路線バスを使って、なんとか行くことが出来るようになった。サンサルバドル市内のバス路線は、路線図というものがなく、非常に分かりにくい。バスは全て民間で、大型・マイクロ・バンを改造したもの、ありとあらゆる車がバスとなり走り回っている。少しでも乗客を乗せようというバスは定員オーバーで傾き、前後のドアからは人があふれだし、車体の外に人がぶらさがっている。その上、排ガス規制などなく、多くのバスは蒸気機関車のように黒々とした煙をはいている。一日、ダウンタウンあたりを歩き回ると、喉から吐く唾は黒く汚れ、鼻の穴なんぞは真っ黒けである。冗談抜きで本当に大丈夫なんだろうかと思う。しかし、地元の人はそんな街角に屋台を出したり、一日中座り込み物を売っている。何事も慣れの問題なのかなあ?
さて、ナンバー30のバスに乗り、ユリから教えてもらった国連の支部へと行く 。だが、そこで待っていたものはやはり言葉の壁であった。国連のオフィスだからきっと英語を話す人は何人かいるだろうと高をくくっていたのだが、いざフタを開けてみると、ここは最前線で活動しているオフィスとあって、スタッフは全てエルサルバドルの人々。それ故スペイン語のみ(自分も知らない間に英語は世界の言語だという変な先入観に染まっていたことを思い知らされる。反省、反省) ジャーナリスト担当の人や難民キャンプ担当の人と話をしてもなかなか意志の疎通が出来ない。ここでも幸運なことに、オフィスの人とあれやこれやとやっているうちに、英語をなんとかしゃべることのできるサムエルが現われた。彼を間にいれてなんとか担当者の人と満足のいく話ができた。自分の希望としては、出来るだけ多くの難民キャンプを訪れ、そこでの人々のありのままの生活が見たいと・・・・・。
「それじゃ、今日の午後、ウスラタンとサン・ヴィセンテに行くボランティアグループがあるから、一緒にに行ってみたらどうや」とすすめられる。
「おっ、ちょっと待ってくれ。これからはいくら何でも無理や。フィルムも充分に持ってきていない。それに準備が全然出来てへんがな。2〜3泊の遠出の取材は来週にしてくれよ」と、あわててしまった。それならということで、明日、日帰りでサンサルバドルの近郊のコミュニティーを2つ、3つ回るから、それに同行してはどうかとすすめられる。それなら、今日一旦ゲストハウスに戻り、ゆっくり休んで心と身体の準備も出来そうだ。どうやらこのオフィスは、毎日全国のコミュニティーにボランティアグループを送り出しているようだ。あとで知ったことだが、正確には、エルサルバドル国内に難民キャンプというものはもう存在しておらず、現在は、
repopulated camp などと呼ばれている。明日から、肌で感じるエルサルバドルを知ることができると思うとぞくぞくしてきた。
次なる訪問先は、UNのオフィスを出て、すぐ近くにあると聞いているASDI( という民間の援助団体のオフィスへでかけることである。この民間の援助団体を知ることができたのも全くの偶然だった。エルサルバドルについて2日目、私事の不始末から(ある旅行者とやっかいなことになってしまい)、ゲストハウスを変更せざるはめになってしまった。それが幸か不幸か、変更したゲストハウス先で、ある老アメリカ人夫妻と知合うこととなった。夫妻は医師と看護婦で、エルサルバドル全国のコミュニティーを訪れ、ボランティアで医療活動をしているということだ。たまたま奥さんが体調を崩し、米国に帰国せざるを得なくなったため首都サンサルバドルに戻ってきたところである。この夫妻からこの援助団体とディレクター、そして、エルサルバドルで長年ボランティアで働いているアメリカの女性を紹介してもらうことができた。
ASDIのオフィスへ行くと、そこに、これまた運良く例の夫妻も来ていた。 (彼らはその日の午後帰国) それなら話は早い。ディレクターのアルベルト博
士を含め4人で話をすすめる。うれしいことに、そこでもその老夫妻が、特に自分のプロジェクトの重要性を力説してくれたのだ。他のジャーナリストが去っていく中で、この国の
”その後 ” をフォローする者の仕事はこの国の再建にとても役立つと・・・・・。まだ若いアルベルト博士は喜んで手助けをしてくれると言ってくれた。ASDIは全国の25あまりのコミュニティを、特に医療面でサポートし、人々の自給の生活を助けている。さっそく来週からいくつかのコミュニティーに連れていってもらうことになった。かつては難民キャンプだったこれらのコミュニティに行くには公の交通機関は全く使えない。それゆえUNとASDIの助けは全く幸運としかいいようがない。
その日の残り、いろいろなバスの路線を乗り継ぎ、サンサルバドル市内をぐるぐると見て回り、これから市内のどの貧民区を主なポイントに取材していくか、頭の中に青写真を描いていく。
2月4日
朝8時、国連の支部へ到着。すぐにピックアップトラックで出発。乗員は全部で7人。 車の中には運転手、UNの担当者、ボランティアの男女各一人、そして私。荷台にはウスラタン州へ行く女の子が2人。彼女たちは、停戦でおおがかりなフェスティバルが行なわれるというウスラタンのコミュニティ−へ向かうということだ。東バスターミナルで彼女たちを降ろした後、5人を乗せた車はきれいに舗装されたアスファルトの国道4号線を一直線に北へとひた走る。FMLNの強力な
があるグアサパを通りすぎ、首都から約1時間半ほどで 郡の・・・ 村に到着。あたり一面、緑豊かな畑と砂糖黍畑。ここでも、エルサルバドルはなんと肥沃な面を持っている国なんだろうと感じる。でも、なぜこの豊かさが・・・・・。
エルサルバドルにきて最初に訪れるコミュニティー。家族数が7つばかりのの小さな共同体。話に聞いていたように男の人の姿は殆ど見えず女の人と子供たちばかりである。皆お世辞にも服装は立派といえず、子供たちは素足の者がほとんど。水道は共同の者が一つあるだけ。電気のない家の中は薄暗く、ベッドがある家はいい方で、ハンモックだけの家もある。しかし、人々は親切にもてなしてくれる。子供たちは初めて見るであろう、首からカメラをぶらさげた東洋人を遠巻きにしてる。あちこちに鶏や七面鳥が走り回っている。多くの犬は暑さのため日陰でごろりと横になっている。だが家のまわりや村の中はきれいに整えられ、自分たちの生活を向上させようという意気込みが感じられる。思わず首都サンサルバドルのメルカードの汚さと比べてしまう。写真を撮るには申し分ない設定だ。フォトジェニックでさえある。さっそくシャッターを切り始める。フィルムが1本、2本、3本とあっという間になくなっていく。この調子だと帰るまでフィルムがもつのだろうかと不安になりながら撮影を続けていった。
国連の担当者とボランティアの二人は、この村と近くの別の村から来た十数人の女の人たちを交えて、共同体のかかえる問題について討議しているようである。何を話し合っているか、もうひとつ理解できない自分はあちらこちらの家の中に首をつっこみシャッターを切っていく。そのうち、13才になるエルマルウスティンという男の子に、近くにあるインディオの遺跡に連れていってもらうことになった。2人で広々とした大地の中を歩いていく。途中で出会う男の子たちはパチンコで鳥を射ち落とすのに熱中している。全く見たことのない鳥や色鮮やかな蝶が目の前を横切っていく。樹々の間をまっすぐに続く道。太陽が照りつける中、時間が止まったような錯覚におちいる。それほどの静けさであある。開かれた大地の中に作られたインディヘナの丘に登ってみる。その上から見るエルサルバドルの風景は、緑の大地が果てしなく続き、「壮大」としか言いようがなかった。
お昼はご飯とトルティーヤ、そしてスープ。うれしいことにレモネード付き。それらが、決して清潔とはいえない食器に用意されるが、そこは無神経なんでも食べるの私のこと、遠慮なしにがつがつと食べはじめる。 ぱさぱさとしたご飯にスープをかけて食べるのだが、どうも指の間からご飯つぶが滑り落ちてイライラする。手を使って食事をするのは慣れて(?)いるはずなのに、どうもおかしい。「ええぃぃ」と、スープのお碗にご飯とトルティーヤの細かくちぎったのを入れてしまい、口のなかに手でその混ざり物を押し込んでしまった。これで一件落着。お腹もいっぱいになったし、気分もすっきりした。
お昼のあとはすぐに次の共同体に向けて出発である。サンサルバドルから一緒にきたUNの担当者とボランティアの二人はそのまま村に残るようだ
。私は近くの共同体から来た十数人の女の人たちとピックアップの荷台に乗りいざ出発。車の荷台に乗ったまま自然の風を浴びるのは本当に気持ちのいいことだ。ぎゅと目をつぶる。顔をうつ暖かい風。前に立つ女性の髪の毛が美しく風になびいている。「俺はここでこんな幸せを感じていてもよいものだろうか」なんて思ってしまった。
しかし、心地よい風を浴びながら道路を走っていたのはあっという間にすぎ去り、いよいよ地獄の山道に入っていった。それから約1時間半、車は道なき道を走っていく。なぜ
4輪駆動の車が必要なのか理解できた。山を越え、谷に落ちかけ、そして再び山道へ突入していく。乾期のため道はからからに乾いている。後輪がまき上げる砂ぼこりで荷台に乗っているものはみんな真っ白。口の中はざらざら、鼻の穴は砂塵でくすぐったい。めがねは砂をかぶって白いサングラスをしているみたいだ。道が傾いているのでおのずと車も傾いてくる。もしかしたら車がひっくり返るのではないかと何度もおののいた。荷台に乗っている十数人の者は車が大きく揺れるたびに宙に放り出されるのである。お互いがしっかりと手や腕を握りあって車の揺れと呼吸を合わす。口をきくものは誰もいない。当たり前だ。何か言葉を発しようものなら、言葉にならず、たちまち舌を噛んでしまうのは明らかだ。
一体全体、いつになったら目的地に着くのだろう、といささか目が回り気味になりながらうんざりしてきた。すると、突然目の前に石を高く積み上げた銃弾よけがいくつも現われた。木と木の間には赤い大きな横断幕。それには「MLN END」とある。そして銃を持ったFMLNゲリラたちがあちこちに見られる。
おおー!ゲリラだ!
2月1日の平和のパレードで見た、銃を持たない首都のゲリラと違って、山の奥で見る彼らは迫力にあふれていた。停戦条約が成立した後も、万一に備えてこのように共同体やコンセントレーションキャンプの入り口を固めているだ。エルサルバドル滞在中、いくつかのコンセントレーションを訪れる機会があったが、この最初に行った場所はとりわけガードが固かったように思える。
共同体の中に入っていみると、以外に開かれたところで少々驚いた。300人を超す人々がこの村にすんでいる。村の中心にあるオフィスで司令官と会い、この村を取材する許可を得る。コマンダーの奥さんに連れられて村の中を案内してもらうことになった。きちんと管理された村らしく、村の地図も作られている。各々の家族も独立した家を持っている。奥さんの説明を聞きながら村の中を歩き回っていく。ふと左前方を見ると、なんと、100人を超す迷彩服を来たFMLNのメンバーたちが軍事演習をしている。こんなに多人数のFMLNの集まりを見てしまい、「俺はとんでもないところまで来てしまっているんじゃなかろうか」とビビッてしまった。写真を撮ってもいいかどうか分からなかったが、こんなチャンスは二度とないと思い、いつものように不作法に、めったやたらとシャッターを切り始めた。いったん写真を撮り始めたら周りの状況が良く把握できないのが私の悪い癖。ふと気付くと、さきほどまで村の中を案内をしていてくれた司令官の奥さんが手持ちぶたさにしている。彼女をそのまま待たせておくわけにいかず、ほどよいところで、写真撮影にきりをつけなければならない。
村には大がかりな井戸が建設中で、共同作業場、集会所などもある、彼女は熱心に説明してくれるのだが、なにせスタンダードなスペイン語を2週間だけ勉強したこの身、何度となく「何、
何?」と聞き返さぜるを得ない。いよいよ我慢できなくなった彼女。どうするかといえば、案内役を誰かにまかせるらしく、この私を近くの家へ連れていった。だが、幸運なことに、連れていかれた家には、昨日首都から帰ってきたばかりのアメリカ人の老シスターがいた。今度は彼女の手をわずらわし、村の案内をしてもらうことになった。
シスターに最初に連れていってもらったのは、村の共同の畑。スイカの緑とコーンの茶色が見渡すかぎり続いている。説明によると、ここの土地はよく肥えているので、例外的な時を除いて、畑に水をやる必要は殆どないということである。見事なまでの畑のでき具合である。 畑までの往復、シスターから村の歴史的なことについて話を聞く。1970年終わりから1980年代始めにかけて、この村においても政府軍による虐殺がたびたびあり、村の中央にある木には、みせしめの死体がよくぶらさげられていたそうだ。もちろん、男も女も、子供も全く関係のない殺戮だった。そして、1980年に暗殺されたオスカー・ロメオ大司教を反政府活動へと導いたのも、彼の友人の一人であるルティリオ・グランデ牧師がこの近くの村で殺されたことが大きな要因であったといわれる。
シスターと共に村の中心へ戻る途中、FMLNが軍事練習をしているのに再び出くわした。メンバーの一人から、その日の午後5時から、何事か行なわれると聞き、興奮してしまう。さっそくシスターをほっぽりだしFMLNの撮影にはいる。FMLNの実際の姿を写真にとらえることはチャラテナンゴ州やウスルタン州の山奥にまで行かなければならないだろうと思っていただけに、シャッターを押す指にも思わず力が入ってしまう。思い存分写真を撮り続ける。ひと汗かいて実にいい気分。次に、村に一つしかないというクリニックへ案内してもらう。ちょうどドクターが診療を始めたので、中に入りこみ、治療風景を写真に撮らしてもらう。診療所の中は、一目見て薬品類が不足している。そこに身体いっぱいに腫物ができた赤ん坊連れてこられた。治療は身体に消毒液をかけられるだけ。それ以上の治療は行なうことができないのが現状である。写真を撮り終えた後、そのドクターから、”
”(ありがとう)と言われてとまどってしまった。こちらこそ、全く見知らぬ者を受け入れてくれた皆に ” ”といいたいほどなのに。
この時、村を視察にきていたFMLNの幹部の一人が車でサンサルバドルに帰るのに出会った。シスターから、「はじめから宿泊の予定がなかったのなら、今日はこのまま彼と一緒に首都に戻ったほうがいいですよ」と強くすすめられた。手持ちのフィルもなくなったことだし、彼女の勧めもあり、その幹部の車の荷台に同乗させてもらうことにした。サンサルバドルまでの一直線のハイウェー。対向車線を走るバスやトラックには人があふれ、さとうきびを満載した大型トラックが車体を揺らしながら精練工場へと向かっている。沈みかけた太陽にいくつもの火山がシルエットとなって浮かび上がっていく。いつのまにか頬をうつ風も冷たくなっている。車体の揺れと共に今日一日の疲れがどっとでてきた。
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エルサルバドルに来て最初に訪れた再定住村で撮影した女の子。
赤い木の実の汁を口紅代わりにぬっていた。
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うだる暑さで犬も身動き捕れず。
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和平条約発行後も、政府側の万一の行動に備え軍事訓練を続けるMLNゲリラたち。
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ゲリラキャンプの、のどかな雰囲気であった。
だが、片時もピストルを放すことのない現実もあった。
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何もない家の中だが、暖かい人のふれあいに満ちていた。
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万一に備えてのFMLNゲリラ演習。
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親子そろって、水汲みの帰り道。
ファインダーを覗きながら、 平和な時をかみしめた。
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