『 救世主の国から 』 3

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              

1月30日
 朝5時、車の騒音で起こされる。表通りに面した部屋のため、車が通るたびにその音と振動が部屋中いっぱいになる。今日から本格的に動き出さねばならないのに、これでは睡眠不足でたまったものではない。さっそく部屋を替えてもらおう。今朝、同室の人にそそうをしてしまった・・・。
 
  午前中、通りをふらふら歩いていると、ゲストハウスから一ブロック半離れたところに安い別のゲストハウスを見つけ、移ることにした。1泊55コロン(やく600円) 1ヶ月の割引で1395コロン(約15500円)。設備はアメリカンゲストハウス ( ANNEX ) よりぐっと落ちるけれど、安さには代えられない。

 昼、カミノ・レアルホテルの中にあるプレスセンターに行き、政府発行のプレスカードの申請をする。ボストンからの身分証明が絶対必要ということで、至急Faxで身分保証の書類を送ってもらうことにする。その時、プレスカードの申請用紙を見て、困ってしまった。用紙に記載されているスペイン語の半分以上を理解することが出来なかった。あの、グアテマラのアンティグアでの、1日7時間×2週間のスペイン語の猛特訓はなんだったのだろう。やはり付け焼き刃はそれまでしかない。

 オフィス内をぶらぶらしていたロイター通信のアレックスに助けてもらい、何とか申請用紙の形だけは整えることが出来た。あとはボストンからのFaxを待つのみである。

 午後4時からのクリスチアーニ大統領会見まで時間がある。それまで、しばらくの間メルカード(中央市場)一帯を歩き回る。中央郵便局まで行き、日本でお世話になった大学の時の先生に無事を伝える葉書を出すこともできた。 エルサルバドルの中央郵便局。 これが一国の中央郵便局か、と思えるほどみすぼらしかった。設備は粗末。案内表示板もなく、用紙等を記入するカウンターはぼろぼろで、使い古された学校の長机を思い起こさせる。郵便局の回りでは、ドルとコロンを交換する「ヤミ屋」が公然といる。 首都サンサルバドルのメルカード。きのう歩き回って感じたよりも随分と大きいことに気がつく。東西はもちろんのこと、南北にもかなり広がっている。薄暗い路地に人がうごめくように群がっている。もしかしたら、第二次大戦直後の日本もこのような感じではなかったのだろうか? このメルカード、これから時間をかけてゆっくりと味わっていきたいものである。

 午後4時前。大統領官邸到着。日本を含めて一国の長をじかに撮影するのはこれが初めて、少々緊張気味。それに取材初日ということもあり、さすがに肩に力が入っているのが自分でもわかる。官邸入り口で日本のパスポートと引換にプレスカードをもらい、中へと入る。なんら厳しいチェックもなく、あまりにあっさりとしている。「ほんとにこんなんでええんかいな?」  ロイター通信のアレックスによると、12年に及ぶ内戦の最後を見ようと、このサンサルバドルには200人以上のジャーナリストが集まっているそうだ。もっとも、大統領会見に姿を見せたのは、そのうちの50人ほどだった。官邸内はテレビや新聞関係の記者の姿がほとんどであった。日本の報道機関は、毎日新聞、時事通信、共同通信の人と会った。停戦条約の発効日を2日後にひかえての大統領会見だというのに、少々肩すかしを食ったみたいだ。エルサルバドル入りしているジャーナリストは、このような会見にうんざりしてしまっているのだろうか? それとも、12年の内戦といっても、やはり中米の小国の出来事、世界の関心から全く無視されているのだろうか?

 4日間シャッターを切っていなかった。5日ぶりに構えるカメラ。やはりうずうずしてくる。 軽くシャッターをリリースしてみる。「カシャ」という何ともいえない冷たい音。大統領を中心にし、連続で「カシャ、カシャ」、モータードライブの調子もなかなかいい。使ったフィルムはたったの3本。しめて111回コマのシャッター回数。1回のシャッターを切るたびに、うすいうすいカミソリで自分の心臓をスライスしているような危険な興奮を覚える。

 ファインダーの中の小さな四角の世界。その中に私はいつも何を見ているのだろうか? 被写体をいかにうまく撮すかというだけのテクニックだけではない。そのファインダーの中で、眼ではとらえることの出来ない「人間のとは?」、という問の答を探し続けている自分の姿が見えることもある。

 大統領官邸からメルカードのあるダウンタウンまではバスで1コロン(約8円)バスの窓から、人々のうごめくメルカードの様子を見つめる。多くの荷物を頭の上に担ぎ、通りを行き交う人たち。排ガスと汗にまみれて疲れを顔に浮かべている子供たち。彼らの素顔に触れたいと思うのに、それは無理ではないか、とあきらめの気持ちが湧いてくる。「停戦発効は2日後だ」とはしゃいでいるのは周りの者だけのように感じる。大統領の会見も停戦も、首都サンサルバドルの底辺に生きる人々には何の関係もないのだろうか? ここの人々を写真に撮るということは一体どういうことなのか?この地面にはいつくばるように生きている人々をフィルムに焼き付けるとはどういうことなのか? いろんな疑問が浮かんでくるが、それでもやはり私はシャッターを切っているのが今は一番気持ちがいい。やはり興味本意の自己満足なのか、帰るまでに答を見つけたいものだ。

1月31日
 午前中は、サンサルバドル市内の政府軍師団の撮影。師団を前にして、クリスチアーニ大統領は、FMLN(ファラブンド・マルチ民族戦線)との戦闘終結を公式に告げた。各国大使、軍関係の高官も多く招かれており、姿を現した報道陣の数も昨日の会見の倍くらいであった。
 
  午後からは、民芸品市場、メルカード内をできるかぎり歩き回った。そのせいで、身体を強い太陽光線のさらしものにしてしまった。エルサルバドルの強い日差しは身体に疲れをためる原因であることに初めて気づいた。帰りにカミノ・リアルホテルへ行き、ジャーナリストとしての登録をし、プレスカードを作ってもらった。少しでも取材費を節約しなければならないのに、今日は、あちこち行くのに3回もタクシーを使ってしまった。その代金しめて51コロン(約600円)

 夕方7時頃になると、メルカードの人々は店じまいを始める。いくつかのお店は夜も商売をするらしく、裸電球に火を灯している。一日中飛び回り、歩いた距離も相当なものになっている。身体もクタクタ、精神的にもクタクタになってしまった。 ダウンタウンからゲストハウスまで帰る道のりがどれほど遠く感じられたのだろう。薄暗い道を歩きながら思った。エルサルバドルに着いてたった3日だというのに、とても疲れを感じてしまっている。 「何で俺はこの通りを、足を引きずるように歩いているのだろう。日本とは全く正反対の国で。ボストンからも遠く離れている。久しぶりに心の底から感じる寂しさである。柄にもなく人恋しさを感じている。自分のやっていることに何の意味があるのだろうか?」 つかみどころがなくなったときに感じる気の弱さでもあろう。

 「人間の生はそもそも『根本的な孤独』なのであって・・・、」。神谷美恵子氏は『生きがいについて』の中でそう述べているが、全くその通りだと思う。特に言葉が自由に操れない外国に来ると、人と会話する回数が少なくなる代わりに、普段考えなかった自分というものを考えてみるようになる。シャッターを切ることに生きがいを感じる自分と、シャッターを切った後にひしひしと訪れてくるこのむなしさは一体何なのであろうか。 それでも神谷氏によると、その「根本的な孤独」も愛という「二つの孤独を一つに融合しようという試み」によって何とかなるといっている。しかし、この私にはその愛がない。愛されることはできるが、愛することはできない人間になってしまった自分には、この国のあるがままの人々の姿を見るのがつらい。少しばかり自己憐憫におちいっているが、たまには気が弱くなってもいいだろう。

2月1日
−「大いなる夢の日々」は現実となった−
  焼けつくような太陽の日差しを浴びながら、夢中でシャッターを切っていた。そのうちファインダーの中がくもり始めた。目の前の数え切れない人々の熱気のせいだろうか。FMLNの赤い旗を振り、赤いスカーフを身にまとった民衆の姿。いつの間にか、自分の目に涙が溢れようとしているのに気づいた。10年近くも流すことのなかった涙でファインダーの向こう側が良く見えない。「この人々の姿をネガに焼き付けねば」。その想いだけでシャッターを切り続けた。

 男も女も、若者も子どもも、そして老人も。ここに集まった全ての人々がこの小さなリベルタ広場の中心に向かって叫んでいる。何を言っているのかは理解できないが、興奮と喜びとが入り交じったメッセージはこの私の胸に伝わってくる。

 今まで数多くの集会を見てきたが、これまで経験した集まりは反対・要求を標榜するものばかりであった。しかし、今私が目の前にしている人々の集まりは「自由と幸福」を喜ぼうとする、そんな人たちの集団なのだ。

 12年に及ぶ内戦の終了を見ようと、全世界から集まったジャーナリストだけでも300人近くなるという。中米諸国を旅行中の者も、この2月1日の噂を聞いた者は続々とサンサルバドルに入ってきている。1月31日の夜はどの宿泊施設も一杯らしく、私の止まっているゲストハウスも満室である。グアテマラのアンティグアで知り合ったカナダ人のブライアンも、お金がないのにわざわざエルサルバドルまでやって来た。 昼頃から、サンサルバドルの西にある公園で政府関係や教会関係を中心とした平和のセレモニーがあった。公園の中心の塔の上には地球を戴いたキリストの像があり、塔の前には平和の灯火が燃えている。しかし、今日の主人公はやはりFMLNゲリラたちの首都でのパレードであろう。彼らが、首都、それも一番の中心地に堂々と姿を見せるのである。そして、そのFMLNゲリラを取りまくのは一般の民衆である。  本で、雑誌で、そしてエルサルバドルに住む人からFMLNの良くない噂を聞いていただけに、自分の目に移るこの大勢の人々は心から嬉しいものであった。

 公園から 通りを経て、リベルタ広場までの数キロ、FMLN支持者たちの大行進が始まった。行進の先頭を見ようと思い、ダウンタウン行きの、超満員で傾いてしまったバスに飛び乗る。バスはいつものルートを避け、裏道を猛烈なスピードでひたすらリベルタ広場のある中心地をめざす。裏通りを突っ走ったバスは、15分で広場のあたりに到着する。しかし、そこはもう、人、人、で一杯である。カメラを2台首からさげ、肩にはカメラバッグを持ったまま、強引に広場の中心に向かう。人の波をかき分け、何とか報道用に設けられた場所に到達することが出来た。そこから前方を見渡すと、目の前は興奮のるつぼと化していた。

 左前方の大聖堂の壁には、1980年3月に暗殺された、民衆の精神的な支柱であったオスカー・ロメオ大司教の肖像がかかげられている。そのそびえ立つ大聖堂の上には、赤いFMLNのスカーフで顔を覆った支持者がすっくと立っている。今日、この入り組んだサンサルバドルのダウンタウンにどれだけの人が集まっているか全く見当がつかない。 炎天下の中、人々はFMLNゲリラの到着を待つ。大歓声につつまれてFMLNの第一団の到着である。中央に設けられた台の上に導かれたゲリラたち。まだあどけない少年もいるし、少女もいる。顔に刻み込まれたしわが目立つ老兵士もいる。 みんな嬉しそうだ。

 ひとり、ひとり、集まった人々と握手をかわしていく。自分の息子もゲリラに参加していたのであろうか、一人の老婦人が涙に濡れた顔でゲリラと握手を交わしている。FMLNゲリラも第2団、第3団が次々にやってくる。昼過ぎに始まったこの大集会、午後6時を過ぎても一向に終わりそうな気配がない。暑さと熱気で喉がカラカラだ。あまりの報道陣の多さになかなか舞台へ近づくことが出来ない。こちらも相当疲れてきた。やはりこの炎天下、倒れる人もかなり出てきている。出動している救急隊の数も増えるばかりだ。

 6時前、記者会見を終えたFMLNの総司令官とリーダーたちがリベルタ広場へやって来た。ゲリラの一兵士、一兵士としっかり抱き合っていく。これで役者は全員揃った。民衆、ゲリラ、その指導者たち。そして全世界から集まった多くのジャーナリストたちは、このエルサルバドルの新しい日を全世界の人々に伝えるであろう。 「大いなる夢の日々」−「リベルター広場へ、いつ、どのようにして行進するかについての白熱した議論」(P.47 ll..11-12)
(『はだしの医者内戦エルサルバドルをゆく』フランシスコ・メッツィ)はついに現実のものとなった。

2月2日
 停戦のフェスティバルのために集まってきた250人を超えるジャーナリストも殆どがエルサルバドルを後にしたようである。同じゲストハウスに宿泊していたコロンビアからのテレビクルーも、朝8時には姿を消していた。そしてグアテマラで2週間、サンサルバドルで4日間一緒だった日本の旅行者のSさんも、朝一番のバスでこの国を後にした。
 
  今日一日、バスに乗り、サンサルバドル市内をいろいろと見て回る。ブリキやトタンだけの貧民街は依然として存在するし、その一方でエアコンディッションのきいていそうな大邸宅も同時に存在している。メルカードでは、多くの職のない男たちが、道路に寝転がっている。エルサルバドルでは最高級のカミノ・レアルホテルの前の道路では、幼い顔をした子供たちが、口から火を吹いてお金を稼いでいる。彼らの顔はピエロのメーキャップをしているが、近づいて話をしてみると、口のまわりだけはやけどで黒ずんでいることに気づく。

  昨日を境として何が変わって、何が同じままなのか。エルサルバドルはようやく出発点に立ったのだ。今日、2月2日から、本当の自分のプロジェクトが始まるのだと思って気を引き締める。停戦を迎えて、中米のこの小国がどう変わっていくのか。それをじっくりと見ていきたい。戦闘が終わり、国家再建に向けて人々が動き始める。血を流す悲惨な戦いはないけれども、貧困や富の偏在は解決されないままである。世界の関心が薄れていくであろう国にとどまり、改めて中米のかかえる問題を考えたい。これから数カ月の間この地に残り、人々の姿をじっくりと見ていきたい。

 エルサルバドルに来て、安さにつられて3泊してしまったいたゲストハウス(バス・トイレ共同の部屋−あまりにも汚れていて、さすがの私もとても使う気にならなかった)から再び1ブロック半離れたアメリカンゲストハウス ANNEX へと戻ることにした。今度入った部屋はとても大きく、そのうえ清潔で、ツインベッド仕様である。長期間滞在するつもりだといってオーナーと宿泊値段を交渉してみた。なんとか1泊75コロン(約850円)まで値を下げることが出来た。身体が勝負のこの仕事、ゆっくりと休むベッドだけは確保したいものである。もっとも、本当はどこかにアパートでも借りてじっくりと腰を落ち付けたいのだが・・・。

 バスナンバー101に乗り、政府主催の平和の祝典が行なわれた へ行ってみる。庶民の足であるバス料金はとても安く、サンサルバドル市 内なら平均して50センタボ(約6円))払うと、どこへでも行くことができる。

高級住宅街が近い 。その周りにはミスタードーナツ ピザハットなど、アメリカでもお馴染みのファ−ストフードの店がたち並んでいる。 ・・・は救世主の像を中心とした小さな公園であるが、手入れがほどこされた芝生は青々とし、若いカップルや親子連れの憩いの場となっている。今日行ってみた・・・ は、いつも通りの静けさである。歴史的な集会の翌日、昨日の興奮が幻想だったかのように普段の様子に戻っている。ただ一つきのうの夢の痕跡があるとすれば、スプリンクラーの水を浴びた芝生に散乱するゴミの山だけである。あれだけ集まった人々の姿が嘘のような穏やかさである。

 一方、FMLNの大集会が行なわれた 。こちらの方も昨日の出来事が夢のようにふだんの様子に戻っている。大道芸人あり、路上生活者がいて、物売りが大声を張り上げている。ただ再建中の大聖堂に掲げられたオスカー・ロメオ大司教の大肖像画が広場を見下ろし続けているのが印象的である。民衆の精神的な支柱であったロメオ司教。その目の前で首をたれて座り込んでいるホームレスの男の姿がどういう訳か哀しげだ。彼も心の中で司教に何かを訴えているのであろうか。だが、そのロメオ司教の大肖像画も数日後には取り外される運命なのであろう。

 今日は日曜日。メルカードもふだんの賑やかさが感じられない。昨日の取材の疲れも残っているのでいったんゲストハウスへ戻り、ボストンへの原稿をまとめ始める。。グアテマラでの2週間とエルサルバドルでの停戦のフェスティバルの分。 ただ思いつくままに書きつづったノート。乱文・乱筆・誤字・脱字、それに加えて解読不明の文字多数。読み返す気もなくフィルムと共に「えぃ!」と封筒につめる。これを読んで編集をしなければならないボストンのM氏とA氏。大変な苦労だなー。次からは出来るだけ読める字の原稿を送ってみよう・・・。
 

停戦平和条約発効の日。数万人の市民が平和の到来を 翌日の未明まで祝った。 
大聖堂に掲げられているのは、1980年に暗殺されたオスカー・ロメロ大司教の肖像画
市民の出迎えを受けるFMLNゲリラたち。
市民の出迎えを受けるFMLNゲリラたち。
停戦条約を2日後に迎え記者会見場に現れたクリスチアーニ大統領。
国軍第一歩兵師団基地において、FMLNゲリラとの停戦を公式に告げる式典。
1980年の EL Mozote の大虐殺や86年の米国人6名の牧師暗殺の
 主力部隊の Atlacatl 部隊も解散させられることになった。        
停戦にはなったもの、問題は一挙に解決するわけではない。
 通りで口から火を吐く芸当をしながらお金を稼ぐ少年。     
停戦条約発効の日である2月1日が終わろうとしている。
 壁に描かれた記念すべき絵は数日後には消されていた。

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