『 救世主の国から 』 2

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              
1月15日
  ボストン発7時20分発の飛行機にてフロリダのオーランド着。飛行機を乗り換えマイアミインターナショナル空港へ向かう。そこで再び飛行機を乗り継ぎ最終目的地であるグアテマラへの空の旅。できるだけダイレクトで飛びたいのだが、少しでも安い飛行機を探しての苦肉の策。初めての海外取材ということで不安もかなりあるのに。大量のフィルムと資料をトランクケースに詰め込みすぎてしまい、30Kgのケースはその重さのために車輪がつぶれてしまった。

 グアテマラシティーには定刻通り午後4時到着予定(合計8時間の短い空の旅)マイアミからの飛行機・グアテマラのアビアテカ社は、飛行機の中のサービスがほとんどスペイン語であった。フライトアテンダントも英語を話すよりもまずスペイン語を話すようにするのには困ったものだ。このとき、さすがにこれから先のことを考えてしまった。いったいどうなるスペイン語の壁。

  入国、税関は型通りの質問だけでなんなく通過。やはり軍政のグアテマラ、大量のフィルムにけちをつけられるかなと思っていたが、荷物のチェックをされることもなく素通り。グアテマラに来たのはスペイン語を勉強するためだけ。それ故、少々物珍しいものがあっても、取材に労力を使うわけにはいかない。空港からグアテマラシティーまでタクシーで約20分。約700円。初めて訪れる中米の大都市。騒々しくて、そして賑やかさいっぱい。本来ならばバスで行きたかったのだが、いつ来るか分からないバス。そして想像を超えた重いトランク。肩に食い込むカメラバッグ。加えてフィルム228本がぎっしりつまったバッグ。今回のグアテマラはあくまで通過点。初日から疲れるわけにはいかない。この荷物を一人で担いでバスに乗る勇気(と若さ)はもう私にはないのだ。

 グアテマラシティーからスペイン語学校がかたまっているアンティグアまではローカルバスに乗る。タクシーを降りると、あれよあれよという間にアンティグア行きのバスに乗せられる。あれほど重いトランクも、バスの呼び込みのおじさんによってバスの屋根にのせられる。もし、屋根にのせてある荷物がバランスを崩して、トランクが投げ出されてしまったらどうしよう、と内心びくびく。文句を言いたいのだが、何がなんだかまわりの状況が分からず、そのうえスペイン語の「ス」の字も知らないのではどうしようもない。バスは2人掛けのベンチシートが通路を隔てて横に一列。しばらくすると、前後のドアからとめどなく人が乗り始めてきた。2人掛けのシートに3人ずつ座り始める。それゆえ、横一列に6人が座ることになる。もちろん中央の二人は、完全にシートに座れるはずがなく、お尻を片側だけ、ちょこんとシートに乗せているだけ。したがって、狭い通路は当然ふさがれてしまうことになる。そして驚いたことに、隙間がないといえる通路に立ち始める乗客。さらに驚いたことに、その身動きできない間を、バス代を集めるお兄さんが身を蛇のようにくねらせて進み、乗客から代金を集めまわっている。突然後方で、バスのたてる騒音に立ち向かうように鶏が大声をあげた。バスは整備されたハイウェーを一路アンティグアへと向かう。

 午後5時半ごろ、急な曲がりくねった山道をおりたバスは、終点のアンティグアの町に到着。人口約3万人。その中に約50ほどのスペイン語学校がある。グアテマラの中でも有数の観光の町。 旅行ガイドブックには、「碁盤の目のようにできた、整然とした町」とあったので、おそらく、通りに名前(標識)があり、歩き易いだろうと安心していた。ところが、あると思っていた通りを示す標識は見あたらない。しかも、石畳の通り。ガイドブック3冊の地図を片手に途方にくれてしまった。果たしてどうなるんだ。いったいどこへいけばいいんだ。とりあえず今夜泊まるホテルを探さねば。近くにあった自転車屋のお兄さんにホテルの場所を聞くが、彼の口から出るのは、もちろんスペイン語のみ。せっかく丁寧に教えてもらっても、結局は無駄になってしまった。それこそ、「右」「左」という意味も全く理解できないから仕方がないか・・・。とりあえず自分の唯一知っている単語「グラシアス」(ありがとう)を言って、親切な彼から離れる。 まずは、何か目印を決め、そこを起点に宿探しをしようと、石畳のうえに重たいトランクを引きずり始める。何とか一ブロック歩いたところで賑やかな四つ角に出る。

  そこに登場したのがあのホセ氏である。愛想笑いを浮かべ、片言の英語で話しかけてくる、「ホテルをお探しかい」、「スペイン語の学校に行くのかい」。もちろん、観光客相手の客引きか、と思う私は相手にしない。「いいよ、いいよ、自分で探すから」と何度も強く言う。でも、さすがに向こうも負けていない。「俺にまかせな」といい張る。そこでますます警戒心を募らせるのは自然の理である。「こいつはやり観光客相手の商売人だな」と。 でも、本当の所途方にくれているし、どう手を打ってよいか分からなかったので、少しばかり「行ってもいいかな」とい気がでてきて、好奇心も湧いてきた。それより、彼についていくしか仕方がないんじゃないかとも思えてきた。 まわりの雰囲気からも全く危険な様子はなかったので、とりあえず彼についていくことにしてみた。「で、スペイン語学校はどこにあるの」「すぐ先の1ブロック半の所だよ」 あたりの雰囲気からトラブルに巻き込まれる心配は全くないようだ。  ホセ氏に連れられて歩いていく。たかが一ブロック半だったが、その間に舗装した道はなくなり、土埃の舞う凹凸の地面が現れ、酔っぱらいが眠り込んでいる横をすり抜けていく。さすがに、やっぱりやばい所に行くんじゃないのか、と一抹の不安が胸をよぎる。でもすぐに、目の前に白く綺麗な建物が現れた。どうやら不安は思い過ごしのようであった。 きちんとしたスペイン語学校である。

 さっそく中に入って、詳細を聞くことにする。今日はディレクターは不在。そのかわりに私好みの女の人が学校の内容を詳しく説明してくれる。スペイン語を学ぶ期間はたった2週間しかない。とんでもない所で時間とお金とエネルギーを無駄にしないように肝に命じる。学校のカリュキュラム、授業料、現地のホストファミリーとその代金、特別な授業はくめるのか等、を詳しく彼女に質問していく。結局、どういう授業をしているのか翌日見学してみて、それからどうするか決めることに落ち着いた。

 それから再びホテル探しが始まる。アンティグアについて最初に話しかけてきたホセ氏はまだ私にくっついてくる気だ。おそらく彼あのスペイン語学校と話ができていて、新しい「お客」を送り届ける役目なのだろう。でも、それにしてもその役割は住んだのにまだ私についてくるとはどういうことだろう。それも自分から進んで重たいトランクをかついでいるではないか。 二人でうす暗くなったアンティグアの町の中でホテル探しが始まった。

 ガイドブックに書いてある宿をいくつか訪れたが、どこも高すぎて(一泊600円でさえ)私の手に終えない。ホセ氏が最終的に連れて行ってくれたのは、看板も表札もない普通の家。ホセ氏が表のドアをコンコンとたたくと、そこの主人が注意深くドアを開ける。中にはいってみると、どうやら地元の人を相手にしたゲストハウスらしい。空き部屋があるそうで、しかも、一泊200円。とにかく安い。今晩はここに泊まることに決定。  重たいトランクをかついで、あちこちとホテル探しにつきあってくれたホセ氏が気の毒になり、彼にチップを渡そうとした。でも彼は「いらない」という。旅行者が困っていたら助けるのが当然だと、とも言う。とても恥ずかしい気持ちになった。最初から観光客目当ての客引きだと思っていたがそうではなかったみたいだ。いつの間にか身につてしまった先入観に気づいた。素直に人の親切が受け入れられなかった自分が恥ずかしい。「人の親切とは」何かを久しぶりに思い起こさせられた。「旅は人間を豊かにする」と、千葉敦子氏は言っていたが、全くその通りだと思う。

1月16日
 次の日の朝、ゲストハウスをチェックアウトする前に、ホセ氏と近くの食堂へ朝食を食べに行く。一見したところ何でもない駄菓子屋だが、狭い通路を奥にはいると食堂があった。仕事に行く前の地元の人もたくさん来ている。ここでもまたもや問題にぶつかった。ガイドブックも何も持たないに私、何も注文できない。英語なんて通じない。全てスペイン語だ。メニューを見ながらホセ氏が一つ一つ通訳してくれる。パン、トルティーヤ、卵焼き、コーヒー、オレンジジュース。私は昨日の昼から何も食べていない。でてきた料理をホセ氏と分けながら、彼の話を聞く。 年齢は26歳。妻と子供三人あり。定職はなし。ぶらぶらとしているそうだ。
 
  昨日紹介してもらったスペイン語学校へ行く。すでに授業は始まっている。全て一対一の授業。そしてなかなか盛況のようだ。どうやらなかなか良い学校らしい。すぐに登録を済まし、一週間分の授業料を払い(もし気に入らなければ学校の変更は自由だ)、ホストファミリーを紹介してもらい、さっそくその日の午後2時から授業開始の段取りをする。授業が始まるまでゲストはウスから荷物を移動し(これまたホセ氏が手伝ってくれた)、あとは時間待ち。3〜4時間の時間の余裕ができたので、今日市が立っているメルカード(市場)へ行ってみた。ボストンのヘイマーケットを大きくしたもの、日本の下町の市場を大きくした感じ。近くの町からインディヘナの人がたくさん品物を売っている。日用品から、肉、野菜をはじめとした食料品、衣服、家具まで一応全てのものが揃うようになっている。 メルカード、そこは一歩足を踏み入れると、昔懐かしい日本の市場を思い起こさせる。立派に店を構えているところあれば、地べたに商品、食料品を積み上げているところあり。特に目につくのは、野菜を売っているインディヘナの人たちの姿である。特に女性は色鮮やかな民族衣装を身につけている。体格も小柄で、平均的日本人よりも小さいのではなかろうか。同じホストファミリーに泊まっている日本人から聞いたのだが、インディヘナでない人はインディヘナの人々をみくだし、同じグアテマラの人といっても、別の位置にいる民族として差別していると言う。確かに市場に物を売りにきている彼らの姿は、あでやかな民族衣装といっても、もとは美しかった織物の服は汚れており、ティシャツは破れたものが多い。彼らの服装、顔のしわと手足の汚れ。それだけ見ると、貧しい、と見えてしまう。でもこれが彼らの生活様式であり、今までの歴史であると思う。  自分の価値基準からだけで彼らを推し量ってはいけないと言い聞かせる。地面に座り込んでお客を待つおばあさんやお母さんの姿。子供たちは、顔や手足を泥だらけにして走り回っているけれど、彼らの大きな瞳は輝いていた。カメラをぶら下げた大男がメルカードの中をのっしのっしと歩くと、大人たちはいぶかしげに目を向けるのだが、子供たちは目を大きく見開いて好奇心いっぱいの眼差しを向けてくる。おそらくこのメルカードには毎日通うことになるだろう。

 今回の中米行きはあくまでもエルサルバドルの取材が目的なのだから、さっそくその情報集めをする事にする。中米の情報は何でも集まってくるという日本レストランへ行ってみる。そこで運良くエルサルバドルに7年間住んでいるという日本人の人に会うことができた。彼によると、エルサルバドル国内の戦闘は、国外の新聞で報じられているほど激しくなく、むしろ戦闘は首都・サンサルバドル市内ではほとんど皆無だそうだ。それに、反政府を標榜するFMLNゲリラのトップの一部も、もとをただせば今の支配層「14家族」から分かれ出たに過ぎないし、結局はただの権力争いに過ぎないんじゃないかと話していた。

1月17日
 スペイン語の授業の合間に、メルカードに行って写真撮影をしていた。その時カメラの調子がおかしいのに気がついた。シャッターをボタンを押しても、シャッターが開かないのだ。内心いやな予感を感じた。学校に帰ってカメラをじっくりと調べてみた。レンズをはずしたり、、バッテリーを新しいのに入れ換えてみるが、どうもおかしい。あれやこれやといじくりまわしているうちに、「ビーン」という音がして、カメラから薄い小さな金属片が飛び出してきた。カメラの裏蓋をあけてびっくり、シャッターが「割れている」ではないか。メーカー自慢の超極薄チタンシャッターが割れてしまった。いちばん良く使っていたメインのカメラがおしゃかになってしまった。写真を始めて1年半余り、始めての経験だ。これからどこで、どんな非常事態が起こるかも知れない。それに備えて「常に最悪を考えておけ」ということか。 目的地のエルサルバドルに入る前にとんでもないことになってしまった。残るカメラは2台。これであと数カ月やり抜かねば。  その日、学校の先生に誘われて近くの村のお祭に行ってきた。そのお祭、広場で行われるのではなく、なんと車をせき止め、道路を占拠してひらかれた。大人、子供を問わず、何十人もの人がロープで身体をつなぎ合い、道路に「枠」を作り上げてしまった。その枠の中で踊りやゲームが行われている。道路を通る車、バス、トラックはそのためせき止められてしまっている。その数見える限り数珠つなぎという有り様である。しかし、ドライバーたちは怒ったり、いらいらしたりしている様子はない。「お祭だったら仕方がないあ」という面持で、祭が終わるのを辛抱強く待っている。果たしていつ終わるのか知っているのだろうか? そのうち、トラックやバスの乗客の中から、そのお祭に参加する者も出てくる始末でもある。時折、せき止めた車やバス、トラックを通すためか、ロープを解除し、お祭は一時中断する。その後、再び道路を占拠する踊りが始まる。取り立てて娯楽のなさそうな村のこと、それが楽しみ事のようである。

 アンティグアの町の中で特に気に入ったのが、メルカード(市場)である。学校に近い(歩いて2〜3分)こともあって、ほとんど毎日足を運んだ。市のたつ月、木、土はいわんや、普段の日でも結構楽しめるところである。入り口の方は店構えをしているのだが、奥へと迷路のような通路を通っていくと、突然青空市場が現れる。店を構えているのは「グアテマラの人」が商売をしているのだが、青空市場の方は、近くの村や山から来たインディヘナの人で成り立っている。鮮やかな民族衣装を身にまとい、頭の上に売り物を乗せて、メルカード内を歩いている。手足は泥(もちろんはだしの人も多い)で汚れ、顔はすすけ、お世辞に「美しい」とはいえないが、その顔は「疲れ」はしているが「生きている」 子供たちの身なりも「ボロ」をまとっているという子も大勢いる。アンティグアの、グアテマラのインディヘナの人々の現実がこのメルカードに集約されている、と感じた。

1月18日
  スペイン語の授業(一日7時間、朝8時から夕方6時までの特訓)の休憩時間に、メルカードへ向かって歩いていた。その時、近くの広場に老人が一人ぽつんと座っているのに気づいた。目があって、何となく吸いつけられるように彼に近づき話しかけていた。昨日から何も食べていない、という。だからといって、何かを期待している様子はない。一緒にそばにある屋台に行き、チキンの定食をおごってしまった。彼は、施しを求めていたわけではないが、助けを求める彼の目があまりにも強烈だったのだ。ボストンにいた時、ホームレスの人に対して取り立てて特別な感情は持たなかったし、アンティグアの町の数え切れい路上生活者たちへ目を向けなかったこの私が、今日会ったこの一人の老人に何かを感じてしまった。ただの気まぐれだろうか? このギャップは一体どうした事だろう。いつも感じている問題を思い起こした。エルサルバドルの人々を助けたい、何とかしたいと思っているこの私は、ボストンのホームレスの人々やアンティグアの人々をほっておいてもいいのか? グアテマラのインディヘナの人々はどうなんだ。インディヘナの人たちは、この国で明らかに低い位置におかれている。公然とそれを口にする人もいる。単に差別という問題ではないように思う。

 ここでインディヘナの人たちについて考えてみたい。自分の基準に照らしてみて、彼らの生活水準は「経済的」には高くないだろう。だが果たして、その生活水準の低さは、貧しいの一言で片づけてよいものだろうか。彼らには彼らの生活文化があるのだから、彼らからすれば、「私たちはこのように生きているのだからほっといてくれ」というかも知れない。しかし、アンティグアで、あるいは首都・グアテマラシティーで、彼らインディヘナの姿を見る時に感じる居心地の悪さは何なのであろうか。経済的には弱者であることと、生きていることの位置関係がごっちゃになっている。私も、お金を持っていない=ダメな者という考え方に支配されているのかも知れない。このグアテマラのインディヘナの生活も、改善・向上させようという力よりも、彼らを今の位置に留まらせようとするシステムが強固にあるのではないかとも感じる。
 
  山奥のインディヘナの村に行って、コカコーラやペプシの看板を見たとき、旅行者はつい「こんな所までコーラが進出しているなんて」と思いがちである。しかし、果たしてそのように感じてもよいのだろうか? 自分の頭の中にある昔ながらのインディヘナの像を彼らに押しつけてもいいのか? 都会とは違った素朴さだけを期待する通りすがりの者は、つい自分で作り上げたイメージを彼らに押しつけがちである。彼らの生活はこうであって欲しい、こうあるべきだと言い切る人もいる。彼らに「このように生活しろ」とは、誰も言えない。ステレオでも、テレビ・ラジオでも、CDでもいいじゃないか。それが彼らの生活の一部であったなら。写真を撮るときにも同じことが言える。インディヘナの女性を撮るとき、人口のプラスチックの髪飾りが入らないように構図を決めたり、真っ赤なナイロンのサンダルが隠れるように位置を変えたりする。 そのままを撮ればいいじゃないか。現実を撮ればいいじゃないか。意図的に作り上げようとする作品を撮るとき、そこには無意識的に彼らに自分のイメージを押しつけているのではないか。そこで撮る写真は ではないんだ。写真を撮るというのはかなり恣意的で(ファインダーの中に何を入れて何を省くかで)、出来上がった作品で撮影者の人間性が明らかにされる。

1月19日

  日曜日はホストファミリーで食事がでない日。そのため今日は外食。たまたま入った食堂。その食堂で、隣の席に4人の陽気なグアテマラ女性たちに出会うことになった。年齢は、それぞれ14、15、19、20歳という。19歳と20歳の女の子はすでに赤ん坊を抱えている。4人ともビールをたらふく飲み、すでに出来上がっている。旦那たちはまだ働いているとか。彼女たちも週に一度だけこの食堂にやってきてビールを飲み、楽しくやるそうだ。もちろん下手なスペイン語で、込み入った会話はできるわけなく、お互いにこにこと笑い合う沈黙の時間の方が長い。一緒に食事に行った日本の人に通訳の手助けをしてもらい、なんとかその場をもたすのが精一杯。彼女たちも日本の人と会話をするのが初めてらしく、会話を交わすまでは興味津々にこちらの方を見ていた。でも、行ったん打ち解けるやいなや、お互い人間どうし、すぐに仲良くなってしまった。

1月24日
 スペイン語を勉強している学校でバスを貸し切り、近くの村の小学校めで出かける。この学校では3カ月に1度の割合で、学用品が不足している村の小学校を訪れ、子供たちにいろいろとプレゼントをしているそうだ。スペイン語を勉強している外国人から一人中り20ケッツァル(約300円)ずつ集め、お菓子やノート、文房具、ほうきなどを町で買っていく。  バスはアンティグアの町を出発し、ガタガタとした道を約30分くらい走る。今日のイベントを知っている子供たちは、表にでてバスから降りてくる大きな外国人たちを好奇心いっぱいの目で迎えている。写真を撮ってくれとせがむ子、カメラを向けると恥ずかしそうに顔を隠す子。全く無邪気な子どもたちばかりで、こちらまで楽しくなってくる。

 さっそく集会室で、セレモニーが始まる。バイオリン、ハープの生演奏もある。小さな集会室、訪問者たちを含めて総勢100名あまりのショーのスタートである。小さな子どもたちは胸を張り、その胸に手を当て、音楽に合わせて国家を歌う姿はなんとも言えない光景である。その歌の内容も理解できないような子どもたちが、国に忠誠を誓うために大きな声を出して歌っている。だが、このグアテマラは、何の疑いも知らずに忠誠を誓うこの子どもたちに、どれだけのことをしてやれるのであろうか。集会室の入り口には、学校に通うことのできないインディヘナの子どもたちが、興味深そうに中をのぞき込んでいる。頭の上いっぱいの薪をのせたインディヘナの子どもが、忙しそうにお母さんの後を追っている。この日、久しぶりに写真を撮りまくり、仕事をしたという充実感を得た。

 学校に戻る。少々身体がだるい。20分ぐらい横になるが頭がボーとしたままだ。 鉛のように身体が重たくなってきた。ソファで再び横になるが一向に回復しない。授業を途中で打ち切って、家に帰って寝ることにする。

1月25日
朝、重たい目覚め。お腹が少し「グルグルー」と鳴っている。その時は、「まさか」と思うが、まだ楽観的。しかし、数時間後に、その「まさか」が現実のものとなった。一度は通らなければならない洗礼がやってきました。その日をスタートに連続3日間、絶える間もなく便所通いが始まりました。悪いことは重なるもので、丁度下痢が始まったその日に、知り合いのインディヘナの結婚式に招待されていたのだ。 全人口200人くらいの小さな村で行われる結婚式。花嫁のサラは、色鮮やかなインディヘナの民族衣装に白いベールをまとっている。花婿のパブロは、なぜかスーツにネクタイ姿。村あげての結婚式。式が始まるまで、大勢のインディヘナの女性たちが、台所で忙しく準備に追われている。男たちは夜の宴会場作りに勤しんでいる。楽しく食べたいお昼だけど、この私はお腹の調子が悪く、スープを飲むだけにとどめる。でも、それだけだと、どうもお腹に力が入らないんだな。若い2人の門出。二人とも幸せになって欲しい。昼食の後、しばらくして挙式が始まる。大勢の人を従えた二人は、婚姻届を出すために家から近くの役所まで大名行列をする。パブロは緊張のため顔をこわばらし、足をブルブル震わせている。サラは落ち着いたもので、カメラを向けるとじっとレンズを見返す余裕がある。役所の後はいよいよ教会で式本番である。役所から教会まで、これまた多くの人を従えた結婚大行進である。教会には村の人ほとんどが集まっているようだ。牧師を前にしての二人の宣誓、指輪の交換、一瞬のキスと一連の手順を踏んでの式である。サラの横にいる母親は、あふれる涙で目を真っ赤にしている。式はこのまま続き、夜の部へと引き継がれる。しかし、私は、午後6時の最終バスでアンティグアに戻らなければならなかった。

1月29日
  予定通りグアテマラでの2週間の滞在を終え、今日いよいよエルサルバドルへ入るのだ。首都・グアテマラしティーを朝8時30分に発ち、昼の1時半にエルサルバドルの首都・サンサルバドルへの約5時間のバスの旅である。 いよいよ想いを寄せていた希望の地への入国である。本で、雑誌で、写真集で、そして映画でしか見ることのなかった土地に今から入るのである。内戦終了という「希望」を手にした首都は、どういう姿を見せているのだろう。1月16日に、メキシコで政府とゲリラ側が停戦に合意したというニュースを聞いたとき、未だアンティグアでスペイン後を勉強している自分がとても苛立たしかった。いますぐにでもエルサルバドルに向かいたかった。  バスでグアテマラからエルサルバドルまでの行く途中、グアテマラ兵士の検問に遭った。全員バスから降ろされ、男の人はバスの前に立たされ、一人一人チェックを受ける。危ないことはないと分かっていても、初めての経験、さすがに緊張しておしっこをちびりそうになった。国境での検査で、200本以上のフィルムを見つけられ、入国審査で滞在日数を15日と期限づけられた。ちなみに一緒に入国した別の日本人は、滞在日数を空欄(30日)のままもらった。そのうえ自動小銃をかついだ検査の兵士にバスの陰に連れて行かれ何やら言われた。彼の様子と話ぶりから「わいろ」を要求しているのは分かったが、スペイン語が全くできない振りをし、 わざと大きな声を出して、他の人の気を引いてやった。その兵士も、エルサルバドルの人々を弾圧していた政府軍の一部だと思うと、やけに腹が立ち、何とか反抗してやろうと思った。

 国境から首都・サンサルバドルまで道幅の広いハイゥエーを、バスは猛烈なスピードでとばす。バスの窓からみたエルサルバドル西部一帯はとても広々とし、本当にこの国で内戦が行われていたのだろうか、と思えるくらい穏やかな風景だ。緑の続く山や平野をつっ切ったパンアメリカンハイウエーから見たこの国の印象は、のどか過ぎるというものだった。

 約3時間で日本の市街地にも似た市内を通り、バスは西ターミナルへと到着した。ダウンタウンの、一番賑やかなメルカード(市場)の近くのゲストハウスに宿をとり、さっそく手ぶらで町の様子を見学しに行く。つい最近の雑誌や人づてに聞いていたように、サンサルバドル市内は一見おだやかな様子で、たで、忙しそうに働く人々と、車の行き交う喧噪が町にこだましているだけである。

 やはり、2月1日に「停戦の祭典」が行われるということである。それまであと2日、何とかこの町に早く慣れ、自由に動き回れる身になりたい。まだ始まったばかりこの先3カ月ある。焦るな、あわてるな、明日はプレスカードの申請をしよう 、と自分に言い聞かせる。

P.S.  バスから見たエルサルバドル西部一帯はとても広々とし、この国で本当に内戦がおこなわれていたのだろうか、と思うくらい人々は穏やかな顔をしていた。
 緑の続く山や平野を突っ切ったパンアメリカンハイウエーから見たこの国の第一印象は、「のどかなぁ」というものだった。
サラとペドロの結婚式。
外国人を迎えて、村の小学校の演奏会。
小さな商人たち。メルカードにたむろする子どもたち。
国に忠誠を誓うのだろうか?国歌を誇らしげに歌う子どもたち。
果たして国の側は、彼らに何をしてやれるのだろうか。

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