『 救世主の国から 』 11

< On the Road V >
< ─ あるフォトジャーナリストの日記より ─ >
一枚の写真が世界を変革することができるという理想はない。
しかし、「変革すべき世界がここにある」という写真を、     
この世に提示できるという希望はある。              
3月12日
昨日歩き続けた疲れがまだ残っている。一日中ぶらぶらしていたいのだが、今日イミグレーションへ行き、再び滞在ビザの更新をしなければならない。中央郵便局まで行くので、とりあえず無事の便りをボストンと日本に出すことにする。ついでに手持ちの現金の残高の計算をしてみると、計画通りにエルサルバドルに滞在する十分な余裕がない。それゆえ、今日も一食しか食べることができないなあ。

3月13日
  エルパイスナールヘ行く途中で立ち寄ったアギアレスの町。毎週金曜日に牛市が開かれている様子だったので行ってみることにした。バスターミナルの手前、国道沿いの広場に牛、豚、馬が集められていた。 何やら賑やかな雰囲気。首からカメラを堂々と下げて歩いてもひったくりに逢う心配は無用だ。屋台のお姉さんに冗談も言える気楽さだ。
  コーラを一気に飲み干し、そのあたりをぶらぶらしてみる。牛や馬の売買はもう終わってしまったらしく、トラックや荷車に牛を積み込む作業が始まっていた。嫌がる牛を取り扱うのは大変だ。ひっぱたり、たたいたり、挙げ句の果てにはしっぽをかんで荷台に乗せようとしている。
  ここでも働く主役は子供たちだ。牛や馬を追い回したりして、忙しく働いている。 カウボーイハットをかぶった大人の男たちは暇をもてあまし、ぶらぶらしている。通りを隔てた木陰では、さいころギャンブルに興じている男たちもいる。カメラを向けるとポーズを付けて応えてくれた。
  町の中心を抜け、近くの砂糖黍畑のまで足をのばすことにする。どこの町でもそうだが、市場の中は活気で満ちている。ただ何となく歩いているだけでも楽しくなってくる。メルカードに足を踏み入れると、すぐに子どもたちが集まり、好奇心に満ちた目をして取り囲んでくる。「オーラ」、「オーラ」と挨拶を交わしながら、写真を撮っていく。子どもが店番をしている所も多い。10歳くらいの女の子が店の片隅でおめかしをしている。カメラを向けると恥ずかしそうにはにかむ。おめかしに興味を持ち始めた女の子はどこの国でも同じだ。異境での感傷か、何にでも感動してしまう。もっと冷静にならなければ・・・。
  町のはずれをしばらく歩いていくと、あたり一面若いとうもろこしで緑の海だ。影を作るものは何もない。真っ青な空。真っ白い道。生きていることに感謝してしまう。隣の砂糖黍畑では、焼いた砂糖黍の収穫で大忙しだ。何台も大きな荷台をつないでだトラクターが走り回っている。あたり一面砂ぼこりだ。その中で働く人がいる。もちろん子どももいる。10歳を過ぎた男の子が頭のてっぺんから足のつま先まですすで身体を真っ黒にし、焼いた砂糖黍を集めている。その子の顔を望遠レンズでアップでとらえてみる。すすで黒くなった顔に大きな瞳がキラキラ光る。カメラに向かってか弱くほほえむ。その姿に胸を打たれてしまう。腕にかかえられないほどの砂糖黍をもち、トラクターの後を必死に追う。ファインダーの小さな枠の中にその姿をとらえてみる。するとと、彼の姿はますます小さくなってしまった。なんてこった。ファインダーをのぞくんじゃなかった。
  シャッターを押すだけで彼の置かれている状況を変えることはできない。いったい自分はどういう立場でシャッターを切ろうとしているのか。たった一つのシャッターリリースが彼を救うわけでもないのに。では、彼らを救う救世主はいったいどこにいるのか。その姿はまだ見えてこない。

3月14日
  夕方7時過ぎ、地元のファーストフードの店に入ると、いきつけのカフェで働いている2人の女性と出会った。2人とも落ち着いていて、どう見ても30歳くらいに見えた。だが年齢を聞いてびっくりしてしまった。23と24だという。子供もそれぞれ2人ずついる。よくしゃべるマーガレットは旦那さんがニューヨークに出稼ぎに行っている。もう一人のかわいい人(口の横に小さなほくろがあり、これ叉私好みの人)も旦那さんがアメリカに出稼ぎに行っている。マーガレットは、「この国じゃ生活するのが大変だ」と笑いとばす。 「アメリカからわざわざ来たハポネスのため、今日は私がおごるからね」と言ってくれる−取材費が十分なくて満足に食べることができない−と言ったわけではないのに・・・。それとも風体から察してくれたのか。その言葉は涙が出るほど嬉しい。好意に甘えることにした。カフェの稼ぎはそれ程あるはずはないだろうになあ。その中からもてなしてくれるとは本当に感謝してしまう。これまで出会って話をしたエルサルバドルの人は皆優しかった。
 店を出て、夜のダウンタウンを徘徊してみる。街灯の無い通り。車のヘッドライトに浮かび上がる人の姿。通りに座り込んで野菜を売っている母と子。おそらく売れることはないであろう、排ガスにまみれた果物の前でたたずむ親子。山とつまれたゴミの中を素足で歩き、店じまいを始める幼い子。商品がいっぱい詰まった手押し車を押す男の子。車が通るたびに様々な情景がうつしだされる。「絵」になる情景だ。だが、カメラにはその「美しさ」をとらえることはできない。この目の前の状況をどのようにして伝えようか。物があふれる豊かなアメリカや日本の人には、単なる貧しい姿として映るだろう。だが、彼らを目の前にして思うのは、精一杯生きている美しさだ。貧富の差が激しいこの国で、そのようにしか生きる道の無い人々にとって、選択枝の無い彼らにとって、そのように生きていくいく「美しさ」がある。ゴミ溜のような道路の隅で若い男女が抱き合っている。 このようにして生き、子どもを作り、そして死んで行くのだろう。生活することイコール生きることなのだ。
  彼らが少しでもよりよい生活ができるように手助けできるなら・・・。それが、私、部外者の願いでもある。

3月15日
 冷房のきいたドーナツの店で何気なく新聞をめくっていく。ふと表の通りを眺めてみる。バスを待つ人々がいる。傍らの小さなスタンドでキャンディーやむいた果物を売っている人たちがいる。みんな肩を寄せ集まって生きている。たとえ生きるのが苦しくても、彼らに側に誰かがいる。親、子ども、恋人、友人。一人で生きていくつらさはない。
  マザー・テレサはアメリカを訪れた時、「この国には『孤独』という大変な病におかされている」と言った。たとえ豊富な物質がなくても人間らしい生活はできる。反対に物はあろうが、人としての生き方ができなくなってしまった社会もある。 なんとなく、切実に感じるマザー・テレサの言葉。

3月16日
  今日で3日間何も撮影していない。先週は少しハードな取材をこなしすぎた。身体を酷使し過ぎたせいか気力まで失ってしまったようだ。ここでの生活にも慣れ始めたせいか、人の目も気にして行動するようになったきた。財政的にもあと10日間ぐらいしか居ることができないのだから、せいぜいきばって活動して行かねばならないのに。とりあえずはメルカードを撮影していこう。ベッドに横になりカメラを握って空シャッターを切っていく。明日はサンミゲール。あさってはコフテペケ。どんどんフィルムを使っていくぞ いつも決心だけはするのだが・・・。

3月18日
  サンサルバドルのすぐ北東にあるイロパンゴ湖。市民の憩いの場所の一つだ。太陽が激しく照りつけている。木陰に腰をおろし、洗濯している人たちを眺めることにする。ここも穏やかな雰囲気だ。太陽に反射し、湖の上には小舟が一艘、湖面から浮かび上がっている。腰を上げてその辺りを歩くことにする。水遊びをしている親子、洗濯をしている娘たち、日陰で昼寝をしている老人等を撮影していく。緊張したところは何もない。カメラを向けても暖かい反応が返ってくる。このような平和な姿も当たり前になっているようだ。
  エルサルバドルで活動しているアメリカ人のボランティアによると、ほんの数カ月前には考えられないほどの変化だそうだ。そういえばコフテペケに行ったとき、FMLNの赤い旗を表にかざしたオフィスを見て驚いた。12年以上に及ぶ混乱が一度に解決するわけではないが、自分の目でみる限りに於いても状況は一段と良くなっている。

3月21日
  今日はエルサルバドル滞在最後の日。 朝5時、薄暗い通りでタクシーを待つ。ゲストハウスを後にし、バスターミナルへと向かう。ここに来た時と同じようにバスで陸路を帰ることにする。グアテマラまで約5時間の旅。国境を越えようとするのに何の感傷もわいてこない。数カ月前の、胸がはりさけんばかりの緊張もない。軍の検問でバスの乗客全員が降ろされた時に感じた恐怖も消え去った。正直なところ、とりあえず「ほっ」とした安堵感。初めの頃のエルサルバドル人の目つき、行動、言葉遣いにいちいち気を張りつめていたときがなつかしい。今はこの地で感じたこと、思ったこと、考えたこと、そのひとつ一つを決して忘れない。
  どうして人は人を傷つけ、苦しめ、その命まで奪ってしまうのか。「何故?、どうして?」という疑問は未だもって解決できない。だが、反対に人が人を助け合い、慈しみ合い、精一杯生きようとするその姿を見ることができた。「救世主」という意味が分かってきたような気もする。救いは外にあるのでなく、内にあるのかも知れない。バスの揺れに身をまかせとりとめもないことを考える
─ 国境で両替をしなけりゃいけないなあ、軍がうるさいグアテマラ国境でフィルムを没収されるおそれがあるなあ。グアテマラで航空券の手配をしなけりゃ。94年の総選挙にはまた同じ道をを通って戻って来たいなあ。
  国境へ近づいて来た、でこぼこのなだらかな坂が続く。次に訪れるときにはこの道は整備されているのだろうか。パスポートをしっかり握りバスを降りる用意をする。 (了)

 後記:エルサルバドルへの旅はこれが終わった訳ではありません。出発点だと考えています。現在のエルサルバドルは総選挙へ向けて動き始めています。92年の12月15日には2カ月遅れで平和条約が達成されました。FMLNの武装解除、軍人への恩赦などいくつものハードルがありましたが、アメリカを始めとする諸外国の圧力や、平和を望む人々の願いによって何とか持ちこたえることができました。その後、軍部による虐殺の跡の発掘や、6人のアメリカ人牧師とお手伝い親子の殺害の首謀者が恩赦されるなど、まだまだ目が離せません。今も国連の人権委員会のレポートによって過去の軍の行為がが糾弾されています。
  1994年の総選挙にはもう一度プロジェクトを組むつもりです。今度はエルサルバドルだけに限らず、いくつもの中米の国々を訪れてみようと考えています。グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ等には目に見える戦闘はありませんが、目を向けなければいけない面がまだまだ潜んでいます。日本に住んでいる限りは否でもアジアに目を向けなければならないのと同じように、アメリカに関わる限りはこれらの国に関心を持たなければならないと思います。
  この取材に関して多くの人の協力を得ました。最後になりましたが、誌上で改めて感謝したいと思います。この企画の始めから終わりまでをサポートしてくれた元気出版の編集部。フィルムの現像を引き受けてくれたクニ。そして、なによりも現地で惜しみない協力をしてくれたアメリカ人のシンシアと国連の現地スタッフ。そして激励の手紙を送ってくれた読者の方々、たいへんありがとうございました。
牛市が終わった後、ギャンブルに耽る男たち。
(アギアレス、エルサルバドル 1992年3月)
線路脇のスラムで遊ぶ子どもたち。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
裏通りで身だしなみ。
(アギアレス、エルサルバドル 1992年3月)
イロパンゴ湖上の漁師。          
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
イロパンゴ湖にて洗濯。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
イロパンゴ湖畔にて日光浴。
(サンサルバドル、エルサルバドル 1992年3月)
サトウキビ畑で働く少年。         
(アギアレス、エルサルバドル 1992年3月)

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