ビルマ 民衆の中で
抵抗する人びと

 「それ以来、オレたちはスーチーさんとの約束を守っているんだ」
 真剣な話が続いた。ビルマの政治を語ると、どうも重苦しくなる。その場の雰囲気 を変えるため、私はビルマの友人から聞いた話を披露してみた。


 「この国政府は、実は世界で一番、国民の幸せを考えているのではないだろうか。だ ってそうだろ。停電があるたびに、またか、ってあきらめの気持ちが全身を覆うんだ。 絶望的なあきらめがね。でも、長時間の停電の後、電気が来ると、ほっ、と安心の気 持ちが広がる。時には無意識に、誰もが手を叩いているよ。やったあ電気が来た、っ ていう感じでね。ほんと安心感と幸せをもたらしてくれるよ。一日に何回もそんな幸 福感を味わせてくれる政府が他の国にある?」


 3人とも、大笑いしてくれた。私の冗談を聞いたルー・ゾーは、コメディアンとし て負けてられないのだろう、すぐさまお返しをしてくれた。
 「いやね、去年の秋、軍を首になったヤツがいるんだよ。その理由を知っているか」 「知らないよ!」
 ウー・モーは、慣れた口調で、横から合いの手を入れる。
 ルー・ゾーは銃を構える振りをして、「そりゃね、銃の撃ち方がヘタだったからだよ」
 それを聞いて、私は、笑った。二〇〇四年一〇月、キンニュン首相(当時)が突然、 逮捕された。スーチー氏との対話路線をとっていたキンニュン氏はタンシュエ氏の不 評を買い、失脚したのだ。もともと兵士としてたたき上げのタンシュエ氏は、大学卒 で情報部出身のエリート官僚でもあるキンニュン氏とソリが合わなかった。実戦経験 のない(銃の撃ち方を知らない)キンニュンの失脚を皮肉った冗談である。
 ウー・ゾーが、さらにウー・パパレイが次々に冗談を口にし始めた。
 「ちょっと待って、その冗談。ビデオに撮って公開してもいい?」
 「もちろんだ!」


マスターシェ・ブラザーズのジョーク集(ビルマ語版)
↓ クリックするとビデオが流れます。

( MPG 2MB)


毎日夜8時半、真っ暗な通りに一軒だけ明るい場所がある。そこが「マスターシェ・ブラザーズ」の自宅兼演舞場。音楽とかけ声、笑い声が絶えない。

 その日の夜8時半、9名の欧米人観光客が、演芸場を訪れた。欧米の旅行者の誰も が持っている観光ガイドブック "Lonely Planet" のミャンマー(ビルマ)版には、彼らの自宅の地図や活動が紹介されている。
 ウー・パパレイたちは毎晩、いまも劇を演じている。もちろん、あからさまに政府 批判の題目は披露できない。問題とならないような伝統的なビルマの踊りや喜劇を演 じているにすぎない。だが、その場にいると、彼らが訪問者に何を伝えたいのか、手 に取るように分かる。
 「これまで日本人は見に来たことないなあ。それに、日本から取材に来たのは、君が 初めてかな。外国人が来ることによって、逆に軍事政権へのプレッシャーになって、 私たちの身の安全が確保されるのだよ。もっともっと日本でも私たちの存在を広めて 欲しいなあ」


ビルマでもっとも尊敬されるジャーナリスト
ルードゥ・ドー・アマーさん

 同じマンダレーで2005年11月29日、90歳の誕生日を迎えた女性がいた。 ルードゥ("Ludu"=「人民」)という敬称が名前の前についたドー・アマーさんである。ルー ドゥ・ドー・アマーさんは、作家・社会評論家・ジャーナリストとして、ビルマ国内は、アウンサンスーチー氏と同じくらい有名な闘う女性である。
 ルードゥ・ドー・アマーさんは1946年、夫であるルー・ドゥー・フラ(82年 死去)と マンダレーで "Ludu Daily News"(『人民日報』)を発行し始めた。二人の積極的な発言は、何度も当局から嫌がら せを受け、67年には出版禁止の命令を受ける至った。

1915年生まれのルードゥ・ドー・アマーさんは、ビルマの歴史の生き証人でもある。ビルマの作家たちから「母」とも慕われている。
 彼女の誕生日当日、ビルマ全国から2000人を超す人が集まった。政治犯として 16年間投獄され、一昨年解放された政治犯のミンコーナイン氏もラングーンから駆 けつけた。また、2000年の福岡アジア文化賞・学術研究賞を受賞した歴史家のタ ントゥン氏(83歳)は、ルードゥ・ドー・アマーさんの誕生会に出席するための移 動中に急死した。いくつかの事件が重なり、この誕生日のニュースはラングーンにも 伝えられた。