果てのないカレンの武装抵抗

─ ビルマの辺境 ─ 歴史と民族の隙間に生きる人びと
 1月2日深夜、ざわざわと人声がした。ボ・ジョーが帰ってきたのだろ
うか。村の人が来たのだろうか。すぐにざわめきは止んだ。寒さと眠気の
ため確認のため起きあがること出来ず。囲炉裏のすぐ横で、猫と一緒に丸
くなって再度寝入る。
 6時過ぎ、私の寝ている小屋に人の出入りが多くなり、ようやく起き出
した。小用を足しに表に出てみると、ボ・ジョーがたき火に当たっている。
やっぱり昨日の夜、帰ってきたのだ。それにしても夜通し歩きっぱなしだ
ったのだろうか。やはりビルマ軍の基地を攻撃しに行っていた。1月1日
の交戦の様子を聞いてみた。
 ボ・ジョーは今回、60名の兵士を率いてビルマ軍の基地に奇襲攻撃を
しかけた。しかしカレン軍の持っていった4つのRPG砲のうち3つが正
常に作動しなかった。たった一つの砲でビルマ軍の60mm砲と対峙しなけ
ればならなかった。最後は手榴弾を抱えてビルマ兵に10mの距離まで接
近する戦法もとった。しかし、火力の差で敗退。十分な武器さえあれば勝
てた戦闘だった、という。KNUの総司令部に武器の補給をかけ合ったと
しても、彼の要求は叶えられない。KNUは財政的に逼迫しているのだ。
 カレン軍の惨敗だった。カレン側に死者5名、負傷者13名の惨敗だっ
た。ゲリラ戦としては大敗である。やはり、ボ・ジョーと一緒に、今回の
戦闘について行かなくてよかった。ジャングル戦だっただろうし、今思っ
ても足手まといになっていたのは明白だ。一緒に戻ってきた若いカレン兵
も、心なしか疲労の色が顔に浮かんでいる。一緒に行動を共にしていたは
ずのディゲは、戦闘で足を痛め、途中の村で休んでいるという。さらに、
その日の午後、ボ・ジョー司令官は倒れた。

 明くる日、ボ・ジョーが私に尋ねてきた。
「そういえば、君も1963年だったね」
「そう、あなたと同じ3月生まれです」
「3月か」
「そう、あなたが6日だけお兄さんです」
 彼の目が優しく笑った。30年前、ほとんど同じ時期にこの世に生を受
けたボ・ジョーと私。歴史には「もし」という言葉は許されない。しかし、
である。
「もし、私が日本でなくカレンに生まれていたら」
 そう思うのは、私のおごりであり、傍観者の立場を明瞭にあらわしてい
るにすぎない。彼はそんな私の思いを見透かすかのように聞いてきた。
「もし、君が私の立場ならどう行動する」
(「本当は闘いたくないんだ」)司令官としては部下の前では決して口に
できないことを私に訴えていた。そんな彼に、私は答える言葉がなかった。
だが、彼は、自分の力を確信するかのように続けた。
「人間は何かを成し遂げたいと思ったら、『いいときもある。悪いときも
ある』、そのことを覚悟しておくべきだ。人は死ぬまで学ぶことができる
から、諦めてはだめなんだ」「戦いが終われば、農夫にでもなりたい。
でも、でも、いろんな事を知りたいから、機会があればもっと勉強したい」
 彼は話の中で、ふと、そんなことを漏らした。
 「カレン民族の為」。そんな大義より、村人を守りたい。普通の暮らし
がしたいと銃を持ったボ・ジョー。しかし、兵士になったのも、司令官の
役割を背負ったのも、彼は、自らが選んだ道でもある。ボ・ジョーは、敢
えてそういうそういう選択肢をとった。そして今、自分の覚悟とカレンの
将来を常に口にする一人の司令官となった。そんな彼の人間性をもっとも
っと知りたいと思う。
 翌日、再会の約束をして、ボ・ジョーと別れた。タダダー村を後にして
2日目、パラダ村という名の小さな村にたどり着いた。チデトゥさん(5
3歳前後)さんという女性の家に泊めてもらった。
 彼女は、祖母の代からこの村に住んでいる。野菜を売るためタイ国境に
出かけることも多く、タイ語、ビルマ語、カレン語を自由に話す。自分の
お母さん、おばあさんと同じように、いつまでもこの村で平穏に暮らして
いきたいと言う。
 ところが2年前、村の小学校がビルマ軍の焼き討ちに遭った。子どもた
ちは安全のため、タイ側の難民キャンプに住み込んで、キャンプ内の学校
で勉強を続けるようになった。彼女は自分の孫に会うため時々、サルウィ
ン河を下り、タイ側のキャンプ時々渡っていく。
「ホロー・クロー」という名のサルウィン河はまた、違う歴史をカレン人
に与えようとしている。その昔、モンゴルからサルウィン河を下ってきた
カレンの歴史があった。彼女もまた、歴史の一部として、ビルマ軍に迫害
されながらも、ビルマ側からタイ側へ流されていく運命を背負っているよ
うだ。歴史書には記述されないが、抵抗する歴史と流される歴史がここに
もあるのだ。
(第一部おわり)