内戦果てしなく
タイ・ビルマ国境のカレン民族同盟
ビルマ軍政府に対して自治権の獲得を目指して戦いつづけるカレン民族同盟。
その戦いはすでに52年に及ぶ。旧日本軍のアジア支配政策とも深い関係があるこの地でいつ終わるとも知れない戦いの中で、確実に犠牲者の数だけが増え続けている。
カレンを取材するフォトジャーナリストがファインダーを通して悲しみと苦しみを伝える。
宇田有三
 私の目の前に横たわっているP(32歳)と私には撮影者と被写体という以外、何の関係もない。それなのに、自分の心臓の鼓動に高まりを感じるのはなぜか。彼に両手がないからか。あるいは、彼の両目がつぶれているからか。
  今年4月13日、ビルマからタイへカレン人232人が逃げてきた。4月だけで2度、計4000人近いカレン人がタイ側へ渡った。

半世紀を超えるカレンの"抵抗"

 ビルマ軍は、カレン人の村だという理由で、無防備な村を容赦なく迫撃砲で攻撃する。家を焼き、家畜を略奪し、畑を焼く。その村に人が住めないようにして撤退する。
 ビルマ軍が去った後、タイ側に逃げた村人たちは、ビルマ兵に分からぬように隠していた食物や生活用品を取りに村へともどる。そのときに、悲劇が起こる。ビルマ兵があちこちに仕掛けていた地雷が火を噴くのだ。Pもその犠牲となった一人である。両手・両目を失って、なおも3日間ビルマのジャングルの中で生きていた。すさまじい生命力である。
「殺してくれ」、とPは友人に頼んだ。しかし、もちろんその友人はそんなことはできなかった。  戦争というのは、生と死のせめぎ合い。人の血が流れるのだという厳しい現実を私に突きつける。
 気後れしていては撮影はできない。私はあえて超広角レンズをカメラにつけ、彼の身体の熱を感じながら撮影し続けた。
 8年前のビルマの山中。雨季が始まった5月半ば、篠突く雨は降り続き、山道は泥濘になり、どこにも行くこともできない。私は、ビルマ軍政府に対して自治権闘争を続けるカレン民族同盟(KNU)の総司令部マナプロウに数ヶ月間住み込んでいた。マラリアが蔓延する雨季のジャングル。そんな時期に長期取材をする者はいなかった。油断するとすぐにカビが生えてくるカメラのレンズを手入れしながら、KNUの幹部の一人T(55歳)と話し合った。
「どうしてこんなにも長い間戦争をしているのか。もう44年も戦っているのに。武装闘争自体に展望はないのじゃないか」 「まだ44年だ。われわれは民族の存亡をかけて闘争しているんだ。これは内戦でも、テロリスト活動でもない。あくまでも抵抗運動なんだ」。彼はそう私に説明した。
 それから3年後、総司令部マナプロウは陥落し、KNUの司令部は移動司令部となった。それからさらに6年目の今年、カレンの武装抵抗は、弱体化したとはいえまだ続いている。
 マナプロウにいた当時、KNU幹部の報道関係者に対する態度が冷めているのに気づいた。衛星放送受信設備を備えた幹部の家では、世界中のニュースを見ることができる。ルワンダでの民族抗争、ボスニアやコソボでの紛争。幹部連中は、世界のメディアは紛争や戦争を商品としてしか扱わないこともよく知っている。
 マナプロウでは、日帰り取材者用のパッケージツアーも用意されていた。銃を構える兵士→武器庫→義足工場→病院……。時間に余裕のある取材者には、近くの安全な"前線へのツアー"がある。
 カレンの闘争も、決して世界的なレベルで報道されないことを彼らは知っている。たとえ、カレンの難民や内戦がニュースとして取り上げられたとしても、多くの国際事件の1つとして報告され、消費される運命である。彼らKNUの幹部はそのことを見抜いている。取材協力はするが、それでカレンの現状やビルマ軍政府の態度が変わるとは思っていない。
 KNU幹部の報道関係者への不信は強い。それゆえ、今カレンの指導部で何が起こって、何が話し合われているのか、ほとんど外部に漏れることはない。ビルマ軍政府との和平交渉の経緯はいつも隠されたままだ。
 また、カレン報道に関して、誤解も生じている。山地やジャングルの中で戦うカレンだけがカレン人でないのだ。カレンの人口は約300万〜400万人と言われているが、カレン人のほとんどがタイ国境に隣接するカレン州のジャングルだけに住んでいるという訳ではない。
 軍部が強権的な支配を続けるビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)へ入り、デルタ地域やカレン州の平地に住むカレンを取材することは事実不可能である。いきおい取材のしやすいKNUに連絡を取り、彼らの活動を取り上げることになる。それゆえ、カレンという民族集団が取り上げられるとき、「戦うカレン」と誇張されることになる。さらに、一方的にKNU幹部の主張だけが表に出る。
 現実には半世紀以上に及ぶ内戦によって、難民キャンプのカレン人は、確実にKNU離れを起こしている。特に、95年1月のマナプロウ陥落後、KNUの弱体化は顕著だ。 祖国ビルマのカレン州への帰還を夢見て抵抗を続けるKNUの老幹部たち旧世代は、闘争を続ける気力を保ち続けることはできる。しかし、タイ側の難民キャンプで生まれ育ち、ビルマに対してそれほど愛着を持っていない若い世代は、先の見えない内戦と難民キャンプ生活に疲れ切っている。ビルマ辺境での闘争は半世紀以上続く。

写しきれない人の悲しみ

 Pの横のベッドには、片足を失った少年兵が横たわっている。その横には、同じように片足を失ったカレン人軍曹(32歳)がいる。彼の妻は、夫の身を案じ、200キロ離れた北の難民キャンプからタイ軍の検問をくぐり抜けてやってきた。乳飲み子を抱えたその妻の悲しそうな目は、私の脳裏から離れない。
 シャッターを切りながら、彼らを撮影してどうなるんだと自問自答する。毎年繰り返される同じような取材。自分でもよく理解できないまま毎年、カレンの地に戻って来る。写真で被害者の現象を写し取ることはできても、あの妻の、悲しみをこらえる一瞬の表情までは捉えきれない。その場の、暑苦しいよどんだ空気が伝わることはない。
 目の前にいる彼らの流した血は、この52年間の闘争でどういう意味を持つのだ。もし、意味を持たないとしたら、あまりにも悲しすぎる。
 Pの「殺してくれ」と漏らした一言がKNUの幹部B(74歳)の耳に入った。Bは、「殺してやれ」と答えたそうだ。それを聞いた私の悲しみは怒りとなった。その話が本当かどうか、直接Bに問いただしてみた。
「われわれの戦いには犠牲は必要だ」。Bは風通しのいい大きなテラスでそう言い放った。彼は、カレン民族を背負っていると自負しているようだ。
 戦闘のために犠牲となる兵士や農民は多くいるのも事実だ。しかし、自宅から歩いて、たった3分の距離に横たわるPを見舞おうとしないB幹部。KNUのそういう姿勢を冷めた目で見ているカレン人が増えているのも事実だ。Bの自負は、空回りしている。
 このことを別のKNUの幹部と議論した。
「私たちはカレンの土地と文化を守りたいだけだ。今、武装闘争をやめたらどうなる。ビルマ軍によってカレン民族は殲滅させられるよ。ジェノサイドがきっと起こる。ビルマ人は信用ならない。いつもカレン人を従属させようとたくらんでいるからね。Bが犠牲となったカレン人を見守らないのは……」
 彼には答えがなかった。私は反駁した。
「どの幹部に聞いても、カレン、カレン……。カレンのことばかり話す。まるでカレン中心主義だ。ビルマ人も同じように軍の暴力の下で苦しんでいるんじゃないか。憎むべきは軍政府であって、ビルマ人ではないはず」
「われわれは、ラングーンに攻め入っている訳ではないよ。奴らがカレンの土地にやってくるから問題が起こるんだ」
「こうやって議論を続けている間にも人々は傷つき続けている。毎年、現地を訪れているが、状況は悪くなるばかりじゃないか。かつて、カレンには広い支配区があった。ところが今や、タイ国境にへばりついた線でしかない。今後、状況は好転すると思うのか」
「もともと今のビルマ軍の基礎を作ったのは日本軍じゃないか。カレンの土地にも多くの日本兵がやってきた。連合軍との戦いで敗走する多くの日本兵をカレン人は助けたんだよ。私だって、今でも日本の歌(軍歌)を歌うことができる。それなのに、今の日本はお金をビルマ政府につぎ込んでいるだけじゃないか」。それを聞いて、私は黙るしかなかった。

日常生活にある戦いの原点

 実際、戦闘の続く最前線では、カレン民族の自治権獲得という大義は見られない。自分の村が踏みにじられ、略奪され、家族や友人が暴行を受け、我が母・妻・娘が強かんされ、地雷よけのポーターとして連行され、人間として扱われないことへの怒りが抵抗の原動力となっている。それを、「民族解放」という名でひとくくりにしてしまうと、もう、私は共感できなくなる。
 ビルマ軍に村を襲われ、村から逃げ出した難民たちの話をよく聞く。「お皿を3枚取られた」「1つしかないコップを持って行かれた」「鶏を5羽とられた」「蓄えてあった籾を奪われた」という話である。
 なけなしの生活用品を失って悲しむ人びと。私たちの平凡な日常では考えられない。コップ1つを守るために武器を取らざるを得ない人々の存在がある。
 しかし、何人死者が出ても、私は彼らのことをなんにも理解できていない。どんなにむごい経験を直接聞いても、私は彼らの立場に立つことができない。そう思うと、自分の無力感に、悲しみと苦しみが加わる。自分ではなく、どうして彼らなんだろう――と。
タイ・ビルマ国境であるモエイ河の水面は静止していた。雨や雲、風や河の水は、見えない国境線に関係なく、自由に動く。どうして人間だけが、国境線や民族に分かれていがみ合っているのだろうか。ひょいと、人為的な国境を越えてビルマ側に渡っても、そこにはタイ側と同じ、日本と同じ平凡な日常生活があるのに……。

※本誌では、民主的な手続きを経ずに政権を奪取した軍事政権への抗議の立場から、国名を「ミャンマー」ではなく「ビルマ」としています。
地雷の犠牲となったP(32歳)。戦闘そのものよりも地雷によって傷つく人が増えている。彼は負傷後3日間、ジャングルの中で生き延びた。
国境を越えてタイ側に避難してきて3日目のカレン人たち。タイ軍によって、いつ、ビルマ側へ追い返されるも知れないという不安な日々を過ごす。(4月15日、タイ・ビルマ国境メラマー付近) ビルマ軍の襲撃によってタイ側へ逃げて来た少年が山肌の洞窟に身を隠す。(4月13日、タイ・ビルマ国境メウス村付近)
タイ・ビルマ国境のモエイ河。川幅は10メートルほど。対岸はタイ領。


今年1月、国連難民高等弁務官事務所の支援で初めて設立された難民村。難民の定着を望まないタイ側は、10万人近いカレン難民を3年以内にビルマ側へ帰還させる計画を発表した。
ビルマ軍から押収した中国製地雷(MM2)を点検するカレン兵。カレン軍は「竹製地 雷」を使用していた。(ビルマ・カレン州、第7旅団管区) ビルマ軍の襲撃から逃げ遅れたカレン人が射殺された。(4月13日、カレン人撮影)