− 民族」として、人間として生きるため −

ビルマ・カレン民族同盟、抵抗闘争開始から53年
( 『部落解放』2001年8月号 )

1月1日のカレン
 前夜と変わらぬ冷えきった夜だった。山の中は、虫の音も凍るほどの寒さである。 部屋の真ん中で赤々と燃えていた囲炉裏の火は、すでに落ちている。夜明け前の寒さ に身を震わせる。寝返りを打つと、カレン語で「プダ」と呼ばれる竹簀の床が、不気 味にきしんだ。
 今日という一日は、昨日となんら変わらない一日にすぎないんだ。2枚の毛布を頭 からすっぽりかぶり、そう再認識した。
 この1月1日という日は、取りたてて特別な日ではなかった。すでに前年の12月 25日、カレンの新年を、その支配領域のなかで迎えていた。それゆえ、西暦での新 年に思い入れをするほうがおかしかった。
 「新しい年を、新しい世紀を、その瞬間をカレンの地にいること、それが私にとっ て重要だ」。その思いは、まったくの自己満足にすぎなかった。
 静かな山の中、遠くで、ドーンと迫撃砲の音が鳴り響いた。しばらくして同じ音が 2、3度続いた。ああ、今年もやはり戦闘は続くのだ。そう思うと、胸が締めつけら れた。

消え去る「少数民族」の闘い
 東南アジアのはずれにビルマという国がある。この国の現状が日本に伝えられると き、それは現在の国家平和開発評議会(SPCD)に対し、非暴力の民主化運動を続 けるアウンサンスーチー氏が話題の中心となる。ところが、SPCDに対して抵抗運 動を続けている多くの「先住民族」の存在にふれられることはあまりない。
 人口約5000万人の多民族国家ビルマは、中央の平野部に人口の約7割を占める ビルマ族が住んでいる。それ以外のカチン、カレン、チン、モン、シャン、ワ、アラ カンなど約40を数える「少数民族」の多くは、タイ、中国、インド、バングラディ シュに接した辺境地帯に住んでいる。
 ビルマは1948年、英国から独立を果たした。しかし、ビルマ人中心の政権は事 実上、軍部が実権を握っていた。一時期、民主体制という形はあったが、1962年 以降、軍事政権が汎ビルマ主義を全国的に強引に推し進める政策をとっていった。そ れに対し「少数民族」の多くは、1940年代末から抵抗運動を続けてきた。しか し、政府軍の圧倒的な物量と政治的駆け引きによって1990年代半ばから、ほとん どの民族の抵抗運動が消え去っていった。
 しかし、カレンの人たちは、民族解放をめざし、現在も武器を持って軍政府に抵抗 闘争を続けている。彼らは、カレン民族同盟(KNU)の名の下に団結し、孤立無援 で自分たちの文化と伝統を守ろうとしている。「カレンのことはカレンが統治す る」。KNUの幹部は、それが自分たちが民族として、人間として生存できる、残さ れた唯一の道だと信じている。

カレン民族としての抵抗闘争
 カレンの武装闘争は西暦2001年2月1日、53年目に突入した。世界でいちば ん古い内戦は終わりが見えない。徹底抗戦をうたうKNUであるが、ここ数年、その 結束にもほころびが出始めてきている。KNUは95年1月、総司令部を置いていた タイ国境に近い拠点・マナプロウを失った。マナプロウ陥落の影響は、その後ずっと 尾を引き、現在の弱体化の最大の原因となった。先の見えない内戦に、カレンの人々 の間に広がった厭戦、それを利用したSPCDによるカレン社会の分断。さらに、ビ ルマを取り巻く国際環境の変化も続く。
 あるとき、仲良くなった老兵M(55)に、彼らの武装闘争の歴史について話を聞 く機会があった。
 「われわれが続けているのは fighting(戦闘)ではなく、あくまでも resistance (抵抗)なんだ。また、われわれカレンのことを簡単に minority(少数民族)と呼 んでほしくない。ビルマ族から見れば、たしかにわれわれの人口は、たかだか500 万人の少数かもしれない。だが、それは数が少ないだけであって、それでわれわれの 文化や存在が劣っているというわけではないんだ。だから minorityという言葉を使 わないでほしい」
 それ以来私は、彼らのことをできるだけ ethnic group (民族集団)と呼ぶように なった。しかし、私も反論した。
 「あんたたちの抵抗闘争が、あくまでも軍事政権に反旗を翻し、民族間の平等をめ ざす闘争であるかぎり、私は取材に来るつもりだ。だが、いったん民族同士の憎悪の 争いとなったら、私はもう来ないぞ。いくら理想を掲げようと、戦争は戦争なんだか ら」
また、KNUの元指導者・ボー・ミャ議長が、「多くの辺境民族だけでなく、ビルマ 民族の市民をも迫害し続けるビルマ軍は、もともと先の戦争でビルマに侵略した旧日 本軍がその基礎を作ったんだ。外国の中で、日本こそがいちばん責を負う必要があ る」と言ってきたことがある。しかし私がカレンの地を何度も訪れるのは、そんな理 由からではない。「私にできるのは、ほんの小さな報告である。しかし、記録されな ければならない一つの報告である」。私は元議長にそんなふうに返答した。
 軍事政権に抵抗している彼ら、ゲリラ勢力の行動をすべて正当化できるわけではな い。「ゲリラたちの理想に燃えるまなざしに感動した」と感じるほど、現実は甘くな い。取材を進めていくにつれ、積年の弊害が多く見えてきた。KNU内部の権力争 い。KNU指導部とそうでないカレン人の生活環境の差。カレン民族内部の男女差 別。
 「戦争は傷つけ合いだ」と頭ではわかっているものの、現実に手や足を吹き飛ばさ れた村人の姿を目にするとやりきれなくなる。さらに、戦禍から命からがら逃げてき た難民一家の苦悩の数々。「もう、現実は見たくない」と思うことも続く。
 状況は毎年、ひどくなる一方だ。変化を望まず、対症的な方針しか打ち出せないK NUの指導部にうんざりしはじめていた。
 知り合いのフランス人の元義勇兵Jに愚痴った。
 「カレンの抵抗闘争には希望が感じられない。とくに、総司令部が陥落した95年 以降の指導部の路線は、もう八方ふさがりだ。もう取材を続けるのが嫌になった」
Jは、素っ気なく答えた。
「結論はボ・ジョーに会ってから下すんだな。彼は唯一、実直なカレン指導者だ。彼 は他の老いた指導者と違ってまだ若い。可能性を持っている。たしか、おまえと同じ くらいの年齢だ。絶対に会ってみるべきだ」
 その時から、第5旅団の若き司令官・ボ・ジョーの名前が自然と耳に入ってくるよ うになった。他の6つの旅団の司令官が全員60歳を超すなかで、彼はただ一人、3 0代後半の司令官だった。

ボ・ジョーと第5旅団
 あるとき、カレン民族解放戦線(KNLA、KNUの軍事部門)に入隊したばかり の新兵と話をすることがあった。
 「第5旅団への配属を命じられたんだ」。彼は少々落ち込んでいた。第5旅団の管 轄する地域は、ほとんどが山の中にある。「山歩きが生活の一部というカレン人で も、兵士として活動するにはさすがにつらい地域だ」とこぼす。またボ・ジョーは、 第5旅団の大隊長から旅団長へと昇進した5年前、自らを律するため、酒とタバコを 口にするのをやめた。彼の厳しさは知れ渡っている。
 ビルマ軍側から絶えず命を狙われているボ・ジョーは、隠密行動が多い。カレンの 取材にはそれほど苦労しない私も、彼に会うには、ずいぶんとてこずった。それが昨 年の暮れ、ようやくその機会を持つことができた。ところが、第5旅団へ行くには、 とにかく時間がかかる。往路に1週間、復路に1週間の山歩き。ボ・ジョーのいる第 5旅団司令部に1週間滞在するにしても、ビルマ政府軍の動向を考えて予備に1週間 を考えなければならない。1週間の取材で、最低1カ月の期間を確保しなければなら ない。
 そのため、カレンを取材する数少ない外国からの取材者は、町から比較的アクセス のよいKNUの第6旅団か第7旅団へと足を運ぶ。
 しかし、ボ・ジョーと会えるなら、第5旅団へ行ってみよう。できるなら新世紀を 山の中でカレンの人たちと一緒に迎えたい。そう決心した。

第5旅団へ
 タイの首都バンコクからビルマ国境をめざした。山歩きの時間を短縮するため、 ボートを借り切ってサルウィン河をさかのぼった。さらに、雨季なら1週間以上かか る山道を約2日間歩いた。
 歩き始めて2日目、周りの様子が妙に懐かしかった。よく考えると、カレンの取材 を始めた9年前、まったく同じ地域歩いていたのだ。あれから時は流れたが、通りす ぎるカレンの村の生活になんら変わりはなかった。新鮮な驚きだった。
 村人たちは、夜明け前に起きだし、日が暮れれば一日を終える。電気もガスも、水 道もない生活。時計よりも太陽、月、星が人間の時間をコントロールする生活だ。唯 一の変化といえば、近くまでビルマ軍が迫ってくるようになり、地雷を埋められた地 域が増えてきたことだろうか。
 「ここまで取材に来てくれたジャーナリストは君が初めてだよ」。朴訥としたボ・ ジョーは、笑顔で私を迎えてくれた。司令官と名乗られなければ、片田舎の農夫の風 貌だ。第5旅団は、ビルマ政府軍が前線基地を築いている個所から歩いて40分の山 奥に位置する。
 最前線へ向かう前日、朝からずっとボ・ジョーと一緒に過ごすことができた。彼の 生い立ち、カレンの抵抗闘争や戦況をじっくりと聞いていた。と、話の流れで、逆に 彼からインタビューをされてしまった。私の経歴や中米での話を興味深く聞いてく る。とくに、私が、中米・エルサルバドルの停戦に立ち会ったと話したとき、「どう やったら、そんなことが可能だったのか」と、停戦について詳しく聞いてきたのも驚 きだった。
 「そういや、たしか君は1963年生まれと言ったね」
 「そう、ボ・ジョー、あなたと同じ年の3月生まれですよ」
 彼は、自分のノートのいちばん上に1963年3月と記し、その横に自分の生まれ た日と私の生まれた日を書き加えた。
 「そうか、同じ3月生まれか」
 「あなたが6日だけお兄さん」
私はそう付け加えた。優しい彼の目が笑った。
 30数年前、ほとんど同じ時期、この世に生を受けた彼と私。何がその違いを生じ させたのか。人の手がほとんど入らない自然いっぱいの山の中で、朝日や夕日の美し さにうっとりしながら、あらためて、人間が作り出した暦や歴史とは何なのかと考え てしまった。いったい何が人の存在を左右するのか、と。

「もし」が許されない現実
 歴史には、「もし」という言葉は許されない。
 自由気ままに行動できる私が「もし(私がカレンに生まれていたなら)」、と仮定 することも許されない。半世紀以上続くカレンの内戦。追いつめられた彼らの現状。 今は、武器を持つことしか選択肢がないボ・ジョーの厳しい現実は、私にその「も し」を許さない。
 「本当は、戦いたくないんだ」。旅団の司令官として決して口にしてはならない言 葉を聞いたとき、彼の苦悩の深さを感じた。
 しかしそのボ・ジョーこそが、「もし」と言うとき、その言葉には、この歴史とわ れわれが置かれた立場の違いへの皮肉が込められているように思えた。私に「逆イン タビュー」をしたボ・ジョーは、ノートに記した2人の生年月日の文字をなぞりなが ら言った。
 「もし、君が私の立場ならどうする」
 現在のカレンの政治的・戦闘的状況。カレン指導部内での矛盾。さらに個人的な苦 しみまで私に話してくれたうえでの質問だった。そんな「もし」に私はこたえること ができなかった。私をまっすぐ見つめる目。教えてほしいと問いかけるまなざし。彼 の村を思う気持ち、カレンを思いやる心、「自由」を夢見る日々。
彼の質問に、私にはこたえる言葉がなかった。
 新世紀を迎えた1月1日朝5時40分、60名のカレン兵を率いた彼はビルマ軍に 戦いを挑んだ。手持ちのRPGロケットは、旧式でうまく作動しなかった。5名の死 者。13名の負傷者。ゲリラ戦としては致命的な大敗である。
 「戦いたくない。が、戦わざるをえないんだ」
 噛みしめるように話すボ・ジョー。私は彼の置かれた状況の過酷さを想像すること はできるが、決して彼の感じる思いを共有・共感できるはずはない。
 そんな彼に私は残酷な質問をした。
 「死んだ5人の人生、運命についてどう思う」と。
 その日の午後、彼は柵に腰をおろし、じっと考え込んでいた。その姿は今でも目に 焼きついている。夕方、彼は過労で倒れた。
 人は、他者との関係性のなかから自己の存在位置を見いだすものだ。私が彼に会い に行ったのは、なにか運命づけられていたからなのか。それともただの偶然の出会い なのか。

帰国、その後
 第5旅団を後にする前夜、彼は私に親が名づけた本名と連絡先を教えてくれた。日 本に戻って落ち着いた4月、その連絡先に、私は返信用の封筒を入れて手紙を送っ た。ボ・ジョーから5月の初め、返事が届いた。
 「今度はいつ来るのか。またいろいろと話がしたい。例の件は、やっぱり無理だっ たよ」。返信の手紙の中には、決して外部には出せない、2人だけで交わした話の内 容の結果が簡潔に書かれていた。
 その意味することを思うと、考え込んでしまった。この同じ地球上に、同じ時間を 共有しながら、異なった状況の人たちがたくさんいる。「もし、私が日本でなくビル マのカレンに生まれていたら……」。そう感じるのは、私のおごりであり、傍観者の 立場を明瞭にあらわしているにすぎない。しかし、そう思わざるをえない何かを感じ る。雨季明けには、彼に会いに行こう。
難民キャンプ内を流れる小さな川で水浴びと洗濯をする難民一家
(タイ・ビルマ国境、2000年4月)
山頂の尾根に沿って掘られた塹壕を死守するカレン軍。
(ビルマ・カレン州、1993年)
夜の強行軍から戻った翌日、疲れを見せず、明るくインタビューに答えてくれたボ・ ジョー司令官。
(ビルマ・カレン州、2001年)
最前線に向かう途中、カレン人の村を通過する。
戦闘にはまったく無関係の山の暮ら しを垣間見ることができる。
(ビルマ・カレン州、1994年)