− エルサルバドルの停戦の日 − |
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私の見た90年代の戦争 その3
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南北アメリカ大陸を結ぶ細い地峡に、七つの小国がひしめく。その中にエルサルバドル共和国という名の国がある。小国が入り交じる中米にあっても同国は、さらに国土が一番小さな国である(日本の四国とほぼ同じ大きさ)。 一九八七年、中米最大の紡績工場であったエルサルバドルと日本の合弁会社・インシンカ社の現地邦人社長が誘拐され、殺害された。海外進出している日本企業の法人が、現地でトラブルに巻き込まれていた事件として記憶している人がいるかもしれない。 東西冷戦下の米ソの代理戦争に興味を持つ者なら、十二年間の内戦の間に死者六〜七万人、海外への避難者五十万人(全人口約五百万人のまさに一割が国外に逃げた)を出したこの国の内戦に興味を抱くかも知れない。 同じ東西冷戦の戦争を、アジアのベトナムを舞台にして映画を撮り続けた米国の映画監督オリバー・ストーンもまた、この国を題材に映画を作っていた(邦題『サルバドル』)。 時は一九三二年三月、場所は中国の東北地方。その一年前に始まった日本軍の侵略の結果として、現地に傀儡国家「満州国」が樹立された。この侵略行為は列強国から非難され、翌年の日本の国際連盟脱退へとつながった。日本は世界からつまはじきにされた。 この「満州国」を国際連合で最初に承認したのがエルサルバドルであった。 一九二九年の世界恐慌は、コーヒーの輸出に依存するエルサルバドルに大打撃を与えた。土地無し農民は、プランネーションから追い出され、まさに生存の危機に立たされた。三二年一月、エルサルバドルの西部サンタアナ県で、数千人の農民が蜂起し、政府や大地主に抗議の声を上げた。その抗議の声は次第に全国規模へと広がっていった。しかし、農民たちの抗議は軍隊に容赦なく鎮圧され、最終的に二万人近い農民が虐殺された。その時の農民の指導者であった共産主義者のアウグスティン・ファラブンド・マルティは逮捕され、処刑された。 この事件は「マタンサ(大虐殺)」として記録されることになる。後年、エルサルバドルの軍事政権と対峙するゲリラ組織の名ファルブンド・マルティ解放戦線(FMLN)は、彼の名前に由来する。このとき、大虐殺を命じたマルティネス将軍はその後、青年将校のクーデターによって失脚。そのクーデターによって成立した政権は、米国の強い反対によって承認されなかった。しかし、そのクーデター政権を日本は、天皇の名において承認したのだ。当時のエルサルバドルが「満州」を認めたのはそういう理由があった。 また、同国がまれに紹介されるとき、勤勉な国民性から、「中米の日本」と呼ばれるときもある。 虐殺と軍政。 ここで日本とエルサルバドルがつながった。 これだけのつながりがあるのに、エルサルバドルのことはほとんどニュースにならない。ただ単に、関係ないと思っていただけでいいのだろうか。 富士山に初冠雪があった、イルカや鯨の救出劇を報道する、あるいは西アフリカのシオラレオネで内戦が激化している。どれをニュースとして取り上げるかは、「誰が」「どんな基準」で選び出すかである。 「日本とは関係ない」「毎日の単調な日常生活と関係がない」「それはニュースにならない」。そういう判断をするニュースの作り手が見えないままの報道が繰り返されている。ある出来事が事件となるには、その出来事を事件として「恣意的」に扱う背景が存在する。私はこの事実を、頭では理解していたが、このことを「実体験」として再認識させてくれたのがエルサルバドルの取材を通じてだった。 ボストンで写真を勉強していた一九九一年、エルサルバドルで二年前に起こった牧師とボランティアの虐殺に対する追悼集会と真相究明の抗議デモがその十二月におこなわれた。一昨年前は、多くの記者と五名の写真家がそのデモを取材していた。しかし、この九一年、同じデモの現場で写真を撮っているのは、自分一人であった。 時間がたてば衝撃的な出来事も忘れられ、記憶から消えていく。そんな風に時間の流れに妥協し、新しい出来事だけに飛びついて取材するという方法でいいのか。 人は体験すること以上に自分の行動の指針となるものはない。 それが私がエルサルバドルへ行くきっかけともなった体験である。 一九九二年二月一日。平和停戦条約の発効日。 焼けつくような太陽の日差しを浴びながら、夢中でシャッターを切っていた。そのうちファインダーがくもりはじめる。目の前の数え切れないほどの人々の熱気だろうか。FMLNの赤い旗を振り、赤いスカーフを身につけた群衆の姿。いつの間にか自分の目に涙が溢れようとしているのに気づいた。男も女も、若者の子どもも、そして老人も、小さなリベルタード広場の中心に向かって叫んでいる。何を言っているのかは理解できない。だが、興奮と喜びが入り交じったメッセージは胸に伝わってくる。 張り裂けそうな感動を押さえ、冷静な目で人々の姿を記録し始めた。これまでニュースでだけで知っていた人々の姿が、まさに今生きた人間として目の前に広がっている。彼らの鼓動を感じる。息づかいが聞こえる。喜びの波動を受け取った。「この人びとの姿をネガに焼き付けねば」。その思いだけで、シャッターを切り続けた。 (つづく) |
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停戦条約発効後も、政府側の一方的な条約破棄=内戦再開に備え、山の中で軍事訓練を続けるFMLN兵士。1992年2月、サンビセンテ市 | ||
停戦条約発効の前日、首都にある国軍第一歩兵師団基地において、クリスチアーニ大統領はFMLNゲリラとの停戦を公式に告げた。Atlacatl大隊はアメリカ軍に訓練され、1980年のEl Mozoteの大殺戮や1986年に起こった6人のアメリカ人牧師殺害で悪名が高い。1992年1月31日、第一歩兵師団基地、首都・サンサルバドル | ||
停戦平和条約発効。この日FMLNゲリラたちが堂々と首都・サンサルバドルへと入った。大聖堂に掲げられているのは、1980年に暗殺されたオスカー・ロメオ大司教の肖像画。数万人の市民が平和の到来を翌日の未明まで祝った。1992年2月1日、バリオス広場、首都・サンサルバドル | ||
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