もう一つの顔 軍事独裁国家ビルマ (上) (1) |
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「アウンサンスーチー氏拘束 」などのニュースが切れ切れ |
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「アウンサンスーチーさんの所在が判明。ヤンゴン(ラングーン)市内の病院 |
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兵士を鼓舞する鼓笛隊がパレード選手権大会を目指して
練習を繰り返す(2003年1月、首都・ラングーンにて) |
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この事件での犠牲者は、政府発表では死者四名、負傷者数十名と伝えら れた。ところが、現場で難を逃れたNLD関係者は、死者(行方不明者を含 めて)は約60人〜80人、負傷者は100人以上だと報告している。事実 究明がほぼ不可能なビルマゆえに、この事件の真相は一年半以上たった 今でも、外部調査による詳細は明らかにされていない。 間一髪、この襲撃から逃れることができたスーチー氏は、近くの町へ逃げ 込んだが拘束された。SPDCはその後、場所を明らかにしないまま、スー チー氏を「保護のため拘束」という理由で軟禁状態に置いた。 「一時期、インセインの刑務所に収容されていたが、国際的な非難が起きた ため、今はラングーン近郊の軍の施設に収容されているそうだ」 スーチー氏の所在を突き止めようとしていた私に、現地のメディア関係者は 秘密裡に連絡をくれた。 SPDCによる今回の軟禁措置は、過去2度の場合とは全く異なっている。 これまではいずれも、スーチー氏の所在は明らかにされており、なんとか 外部との接触の方法もあった。だが、今回の軟禁は、約三ヵ月半経っても 居所が分からないままだった。 ビルマ軍政府は今回、どうしてこのような強権的な態度に出たのか。それ も、前回の軟禁解放からまだ一年しか経っておらず、国際社会もSPDCと NLDの対話を期待していたところだった。翌6月には、カンボジアのプノン ペンでASEAN(東南アジア諸国連合)外相会議が開かれることになって いた時期だった。 軍政が対話路線を否定し、スーチー氏に危害を加えれば、国際社会から 指弾されるのは目に見えていたはず。 実際、内政干渉をしない方針のASEANの会議でさえも、さすがに今回の 事件は目に余ったようだ。外相会議はその公式の声明で、極めて異例な ことに、アウンサンスーチー氏解放要求が明記したのだ。 |
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入院中のアウンサンスーチー氏の回復を祈り、
小雨降る中、静かにたたずむ民主家運動の 支持者たち。ビルマ国内、しかも首都で公然と スーチー氏への支持を表明するのは勇気いる 行動である。その後彼らがどのように扱われた のかは分からない。(2003年9月) |
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民間団体だと言われているUSDA(連邦団結発展協会
=右の緑の看板)だが、その看板が警察署(左の青の 看板)と一緒に掲げられているのは、この協会が警察権力 と一体化している証拠である。(首都・ラングーン) |
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