軍の支配するビルマ ─ 民主化への兆しは見えず − (4) |
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< 「血の日曜日事件」 > 首都ラングーンでは一見経済活動が活発で、軍政の政権運営の舵取り がうまくいっているように思える。しかし、それは首都だけで生活している 人の感覚である。 地方の、外国人の訪れることのできない地域では、経済的に苦しい状況 が続いているのだ。私が1年間ビルマに滞在して一番強く感じたのは、 この首都と地方の差が国外へ全く伝わっていないことである。 軟禁状態から解放された後、地方遊説にでたアンサンスーチー氏は、 アラカン州・カチン州・シャン州などを訪れた。どこへ行っても熱狂的な 支持者に囲まれた。その数は数千にも上った。スーチー氏をある程度 抑え込んでいたと思っていた軍政権は、人びとの反応に驚いた。 事件は、5月30日にザガイン管区で起こった。軍政権は、民間の団体 の体をとっているが、その実は軍の翼賛団体である「連邦団結発展協会 (USDA)」を使ってスーチー氏の演説一行を襲撃させる凶行に出た。 それは後に、「血の金曜日事件」と呼ばれる大弾圧だった。 軍政府発表で死者7名/行方不明者数名、NGO等の発表で死者10数名 行方不明者約100名。アンサンスーチー氏は再び拘束され、軟禁状態に 置かれてしまった。この事件の反響は大ききかった。軍政寄りと思われて いた日本政府でさえ、新規のODAを凍結せざるを得なかった。 軍政のスーチー氏に対する処遇は、これまで以上に厳しかった。拘束から 約3ヶ月半、9月半ばまでスーチー氏の所在は全く明らかにされなかった のだ。 軍政権は当初、スーチー氏の身の安全を保護するといいつつ、国家保護 法10条a (国家が危険人物とみなした者を5年間、裁判なしに拘束できる) を適用した。米国は厳しい経済制裁を課した。ビルマもそのメンバーであり、 国家間の内政不干渉を唱える東南アジア諸国連合(アセアン=ASEAN) でさえ、今回のビルマ軍政府の行動を諫める公式声明を出した。 そのスーチー氏の所在が9月17日、突然明らかにされた。手術のため ラングーン市内に緊急入院したからだ。これは軍政にとって幸運だった。 まさに、10月のアセアン首脳会議を前にして、スーチー氏の解放問題が 取り上げられるはずであったからである。軍政権にとって、健康問題を 理由に、スーチー氏をの解放を解き、自宅軟禁状態へと移すことができた のだ。理由のないままスーチー氏の拘束を解くことになれば、軍としての 面目がつぶれるからである。 新しい首相として外交デビューしたキンニュン氏(軍のナンバー3)は、 インドネシアでのアセアン首脳会議を無事乗り切った。10月7日に終了 した会議の議長声明では、さすがにビルマの国名が明記された。しかし、 そこには「ミャンマー軍政」のいう民主化への取り組み計画を評価する 記述だけで、アンサンスーチー氏の解放や件は全く触れられてなかった。 あくまでも権力にしがみつこうとするビルマの軍政府。その計画する 民主化試案では、ビルマの人びとの自由と経済的な発展の可能性は まず望めないであろう。 |
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<Aug.2003> |
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<Nov.2002> |
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