果てのないカレンの武装抵抗

─ ビルマの辺境 ─ 歴史と民族の隙間に生きる人びと
 マナプロウに4ヶ月近く生活するうち、「来る者は誰でも受け入れる」。
そんなKNUの体質を徐々に理解し始めた。緊張感はあまりなかった。し
かし、マナプロウでの生活は楽ではなかった。10m先が見えなくなる激
しい雨。1週間放置しておくだけでカメラのレンズにかびが生えてくる、
そんな湿度の高い環境。この時期に長期間、ジャングルの中に入り込んで
取材を始める者はいなかった。また、雨季の最中、病気の発生率も高くな
る。マラリアやデング熱にはかかって当然、運が悪いとコレラや破傷風に
も感染する。
 KNUを医療面で援助する米国の団体が、医師1名と看護婦2名を派遣
していた。そのうち医師と看護婦は、1ヶ月もたたないうちにマラリアに
罹り、マナプロウを後にすることになった。その他、マナプロウには、コ
ートレイ領内や難民キャンプで英語を教える欧米人が数名出入りしたいた。
ときに軍事指導の米国人が数名現れたり、KNLAに義勇兵として参加し
ている仏人や日本の若者も目にした。
 雨季の期間は、敵味方とも補給路が確保できないので戦闘にもならない。
私は暇をもてあましていた。それは司令部とて例外でなかった。勢い、K
NUの幹部連中と親しくなった。彼らから、カレンの闘争史やビルマの実
情など、じっくりと話を聞くことができた。
 今はタイの町に住むKNUの幹部の一人、Dに会ったのもその時である。
「外国からの報道陣はすぐに、『カレンやカチンなどの民族がなぜ闘って
いるのか』と聞くけど、我々のやっていることを戦闘(fighiting) だと
軽々しく表現して欲しくないなあ。我々は あくまでも抵抗(resistance)
しているんだから。そのことを勘違いする者が多い。 また、君もそうだけ
ど、ビルマ軍政府の抑圧に対して、では『少数民族(minority)』はどう
するのか」とも質問する。でも決して、軍政側、ビルマ人側のことを『多
数派( majority)』 って表現しないね。なぜかね。人口の多い少ないで、
区別するそういうやり方には納得しないよ。どうしてそんな呼び方をする
のか。ビルマ人とカレン人はあくまでも平等なんだから。我々は、カレン
はカレンであり、カチンはカチンであるのに。人口の多い、少ないで区別
はしてほしくない。そんな君らの基準を持ち込んで欲しくない」
 それ以後私は、特に「多数派」と比較する場合を除いて、「少数民族」
という言葉の代わりに「民族集団(ethnic group)」という言葉を使うよ
うになった。
 マナプロウに到着して2週間目の1993年6月1日(火)、ようやく
最前線に行く許可が下りた。

 あれから8年半後の2000年12月、当時と同じサルウィン河の、ほ
ぼ同じ地域をさかのぼる。当時は激しい雨の中のボート移動だった。しか
し今回は、薄暗い闇の中を、ボートを走らせることになった。
 カレンの取材を始めてこのかた、遠目にビルマ軍の兵士の姿は何度か見
かけたことはある。だが、実際にカレン軍とビルマ軍の戦闘に巻き込まれ
たことはない。戦闘は暗闇のゲリラ戦が多いため、事実上撮影は不可能だ。
また、実際に戦闘で命を失った兵士を見たのは93年が最初で最後だった。
 それは今回と同じように、サルウィン河をさかのぼって、KNLA20
大隊の展開する前線に向かっていたときだ。雨季特有の猛烈な雨で目の前
が見えなくなっていた。ボートには、タイ側で買い付けをし終えたビルマ
カレンの村人で満員だった。ボートの喫水線はとうに超え、船の中に水が
ジャバジャバ入ってきた。船の中央部に腰をおろす。目の高さに水面があ
った。
 その時、目の前を、布に包まれた黒い物体がゆっくりと流れていった。
隣にいた当時の案内役ケ・ビーが言った。
「殺され、河に捨てられたビルマ兵士だ」