『 ユージン・スミス 』 楽園絵への歩み (祐学者 )
土方 正志・文 長倉 洋海・解説 1996年

「−戦争は国と国とのたたかいであって、個人と個人のにくみあいではないはずだ・・・」(P23)

「戦争の写真より、人間の内面にふみこんだ写真を撮りたいと思い始めました。多くの視野悲しみを撮り続け、みずからもその犠牲になったユージンは、戦いではなく人間を撮りたいと思うようになった」(P30)

『撮影するテーマについて理解していなければ、よい写真など撮ることができない』(P36)

『自分がよしと思うあつかいかたでないかぎり、絶対に掲載を許すわけにはいかない』
悲惨な状況におかれながらも、なお人間としてのかがやきをうしなわない人たちの表情』 (P38)

「シュバイツァー博士は『アフリカの聖人』などではなく、自分の理想とすることをできるかぎり実現しようとしている、ひとりふつうの人間だった」(P41)

「人間はけっして人間性をうしなうことはない・・・・・・。そんな視点からピッツバーグという町と、そこに生きる人たちを表現するためには、どのようなフォト・エッセイをつくりあげるべきなのか・・・・」(P44)

「人間はだれでもなんらかの偏見におちいることをまぬがれえない。すべての人間が自分の中に偏見をかかえて生きている。ぼく自身も偏見にとらえられながら人生を送り、写真を撮ってきた。でもせめて、人間は自分たちの偏見を正し、真実に近づこうと努力しなければならない・・・・・・」(P75)

「水俣には、・・・・・そしてきびしい状況のなかでも、希望をうしなわず、たくましく生きているひとたちがいる。・・・・・ぼくが追い続けてきたテーマのすべてがある」(P81)

「怒りが、ユージンの原動力となっていました」(P92)

「そこには、ユージンがずっともとめてややまなかった、きびしい状況のなかにありながら、美しくかがやく人間の姿がありました」(P96)

「・・・・・・私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときにものを言う・・・」(P100)

昨夜 (1999年10月9日)、原稿を書くのに行き詰まっていたとき、たまたま本棚から取り出したのがこのユージン・スミスの自伝書であった。また、彼の撮った写真集を眺めてみた。
そして 今日、たまたまテレビでアンリ・カルティエ=ブレッソンを題材にした番組を見た。
フヌケ状態になっている自分に、久々に活を入れてくれた。
ある程度写真を撮れるようになった自分の今の状態は、彼らの写真に対する姿勢に比べるとまだまだあまいな!と感じ入ってしまった。
人それぞれの写真の取り方・発表の仕方があってもいいだろうし、必ずしも彼らの物まねをする必要はないし、またできないだろう。
そこで、「 自分の写真に対する捉え方はどうなんだ 」、そう考えるヒントをくれた作品でもあった。