高木
仁三郎 『 市民科学者として生きる 』
( 岩波新書 2000年 )
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「 行為で語れないならばその胸が張り裂けてもだまってゐ(い)ろ
」
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「私の生きてきた時代の進展と私自身の生き方がどのように切り結び得たか、ある時は時代流れに身を委ね、流され、ある時は自分なりに抵抗しながら生きてきた、・・・」
(P.12 ll..5-6)
「この『時代』とは、私にとっては、すぐれて核の時代である」 (P.12 l.8)
「そうして、小学校低学年から高学年に、さらに中学、高校へと進むにつれて、この不満感と憤りの意味を、私は反芻して考えさせられ、それは次第にひとつの信条のようなものにつながって、私の人格形成に大きな影響を与えていった」
(PP.26-27,16-1)
「・・・国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人たちの・・・、安易に信用しないことにしよう、なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう、というようなことだっった。それは信条というよりはある種の直感的警戒心といった方があたっていよう」(P.27,l.3-6)
「・・・、徹底的に自分で考えることを教えてくれたことだ」(P.47,l.13)
「・・・、後年、ある人に『あなたの人生は失望と挫折と失敗の積み重ねによって初めて成立しえた』」という趣旨の・・・」(P.57,l.14)
「私としては教授たちから『科学とはこういうものだ』と教え込まれる前に、自分なりの科学観をまずもちたかったのである」(P.65,l.3)
「・・・とくに、私が最も良心的で誠実だと考えていたある教授は、『学問というものはこのような時にも、世事に流されず、中立性を保つことで独立性を保てる。科学というのは本来価値中立的なものだ』と述べた。
私は、この発言に、学生運動の活動家たちではなく自分こそが何か反論すべきだと感じた。『学問の独立性は、民主主義と自由、そして個々人の人間としての尊厳といったもののうえに成り立つのではないか。それが侵されている今、学問の立場からこそ発言すべきではないか』と」(P.67,ll..8-15)
「 だが、この時発言しなかったことは、私の心の中に、深い傷を残した。結局、私は権威者たちの前で怖じ気づいて、自分の考えを述べられなかったのではないか。そしてそれは、自分があれ程批判していたはずの、無謀な戦争へともっていかれた多くの大人たちの沈黙と基本的に同じでなかったのか」(P.68,ll..3-6)
「 では、いったいお前は何がやりたいのか。これがその時私がいつも自問していたことで、けっこう厳しい問であった。これにきちんと答えなければ、科学者としてのアイデンティティーの確立はあり得ない」(P.75,ll..6-8)
「・・・決まっていくひとつひとつのことの多くの場合些細なことで、少し疑問があっても上司に逆らってまで反対することはないと思ってしまう。しかし、これを積み重ねていると、決定的なときに容易に反対できない。反対しようとすると一身を賭すようなエネルギーが必要となる。人々は自主規制することで会社に忠誠を誓い、その代償として就寝雇用を保障されていく」(P.87,ll..6-9)
「私の体験的仮説からすれば戦後の民主教育の基本精神は、企業というシステムの中に入ったとたんにその教育効果によって、漂白され、失われてしますのではないだろうか」(P.87,l.12)
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無言が胸の中をうなってゐ(い)る
行為で語れないならばその胸が張り裂けてもだまってゐ(い)ろ
腐った勝利に鼻はまがる
萩原恭次郎
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「会社時代、私はひたすら科学者ないしは専門家として一人前になり、そうすることによって、自分のアイデンティティーを確立しようと焦っていた。・・・・。きわめて細分化された自分の領域をつくることで、専門家たりうる、そんな典型的な専門家への道をたどりつつあった」(P.92,ll..9-13)
「・・・。そうすれば論文が書ける。 これは典型的な研究(者)の論理で、何が重要かよりも、何をやったら論文が書けるか、という方向にどんどん流されていく。研究者はすなわち論文生産者となる。私もいったん、完全にこの研究の論理にはまりこんだ」(P.102,ll..8-10)
「・・・自分が陥った、そんな”論文中毒”・・・・・。 多くの場合、この中毒症状によって、研究者は、研究が研究を呼ぶ世界にはまりこみ、何のための科学か、とか、今ほんとうに人々に求められているのは何か、ということへの省察からどんどん離れてしまうのである」(P.103,ll..11-17)
「・・・・・。いったい、自分は志はどこへ行ってしまったのか。・・・・・」
(P.106,l.16)
「・・・、その利害の立場に立っていたとしたら、自分が原体験に基づいて、あくまで自立した個の立場を貫こうとした志は、いったいどこへ行ってしまったのか」(P.109,ll..5-7)
「・・・会社を選んだ時と同じくらい、自分が物事に無知でそれ故に愚かな選択をするということを痛感した。まあこれは私の一生を貫いたことで、無知で無思慮ゆえの無謀が、かえって自分の色々な試練や冒険の機会を与えてくれ、自己変革への推進力になったといえよう。そう感じているから今でも私は、「見る前に跳べ」あるいは最低限「歩きながら考える派」で・・・」(P.115,ll..1-5)
「・・・、今、自分もまた、理想主義に徹するしかないのではないか。・・・」(P.123,ll..10-11)
「・・・、成算などまったくなかった。どにかくそこに自分をもっていくことが必要だったと思う」(P.124,ll.13-14)
「・・・、われわれ日本人は、事柄を個人的努力や倫理の問題に還元してしまう傾向が強いが、彼らは常にシステムの問題として考えていく。この点で、大いに教えられた」(P.131,ll..4-5)
「・・・批判ということのもつ創造的力を再認識したことだ。・・・・・。しかし根源的な批判は、まず人間の関心のあり方を問題にし、その関心のもとに認識が方向づけられるプロセスを省察する。その省察抜きに、客観性の名のもとに測定データなどを絶対的真理としして押しつけるのは、自然科学に典型的なイデオロギーだ。関心のあり方と認識のプロセスに徹底的な批判のメスを入れることによってこそ、社会をよりよいものへと方向づける創造的力が生まれてくるくる、というのが、ハーバーマスからとくに私が学んだことだ」(P.131,ll..10-14)
「・・・実際に問題に直面して解決を迫られた時には、持ち合わせの知識と経験とが総動員される。逆に言えばその知識と経験の可能にする範囲でしか、問題に対処し得ないのかもしれない」(P.132,ll..1-3)
「そう思うと、なおのこと、今という機会を失しては、自分は永遠に逃げの人生を送ることになると思った。私生活の面であるいは経済的ににも当然大きな困難は予想されたが、私にとってはそれは二義的問題で、自分の納得する道を生きるより他に生きようはないと思った」(P.134,ll..13-15)
「・・・、自己流にこだわりすぎる自分の性格への反省は、常についてまわる」(P.150,ll..8-9)
「・・・、そして時効という狡猾な逃げ道。それらは、私の想像をはるかに越えた、・・・・・。・・・、私は怒りの感情で動くことはなかったが、この時は心からの憤りの気持ちをもった」(P.152,ll..13-14)
「それまでは、自分の子どものときからの経験と反省を踏まえ、自分の前につきつけられた問題から逃げないこと、いかなる組織や権威に対しても独立性を保ち、すべての問題に知的誠実さをもって対処すること、という、『自立的個人』という観点から生き、行動してきた。・・・・。
しかし、TMIと、とりわけチェルノブイルの・・・・・。さらに、現代文明全体を転換していくというようなことまで、視野に入れて活動しなくては駄目だ、と思うようになった。これは私にとって一大転換だった」(PP..154-155,ll..12-2)
「・・・。これはいつか来た道ではないのか。これにきちんと立ち向かえないとしたら、いったい自分は今まで何を学んできたのか」(P.178,ll..2-3)
「・・・こうして、私たちは、状況的対処主義に○○反対の運動を組んでいくのではなく、ある程度の長期的構想のもとに運動や専門作業を進め、そのための支援を得ていくやり方を次第に修得した」(P.182,ll..4-5)
「運動側の一部の人からは高価の期待できないスタンドプレーだと批判されたが、これはあたっている面はあった。私には、個人的スタンドプレーに走る欠点がある。・・・・・。しかし、彼らがそのように市民の平和的な直接行動による意思表示に嫌悪感を露わにすることに対抗することこそが、一市民活動家として自分のなすべきことだと思っているから、むしら彼らの反応への予期こそ、私をこの行動に走らせたものであった。もっともそういう計算ずくで行ったというよりも、止むに止まれぬ衝動で行動した部分が大きかったが」(PP..183-184,ll..17-21)
「・・・、私自身のスタンスは、単に風景としてその遠景を眺めていたにすぎない。・・・・・。 ・・・、自分の問題として無視できないと思うようになってからは、・・・」(P.199,
4-11)
「この場合『反原発』は、・・・、人間の基本的な生き方そのものに関わっているのである」(P.200,ll..5-6)
「 これらの背景には、すべて『国益のため』という大義(と称するもの)がある。・・・・・。 ・・・、私たちが半世紀前の戦争の体験を通して学んだはずのものを、すでにすっかり転倒させており、個人の人権や思想に基づいて国家があるのでなく、国家のもとに個人があるのだという思想だ。・・・・・。
・・・、私の原体験は国家にのみこまれてあの無謀な戦争へと駆り出されていった大人たちの世代に対する強い不信感に根ざしていたから、これらの人々との出会いは私にとって新鮮な驚きであり、自分のみがひきしまる思いがするのだった」(PP..202-203,ll..7-14)
「・・・、本質的に何が最も重要なことか、そして人々のふつうの日常的な思考回路にのせるような論理的説明はどうすれば可能か、・・・。」(P.206,ll..9-10)
「・・・・・。肩書きがいかに重視され、権威につながるような肩書きのない私は、それだけで証人として欠格であることを、国側は主張、立証しようと・・・・・。
これにも、それなりに傷つけられた。しかし、少し冷静に考えると、地域の住人たちは基本的に日常にそのように、虫ケラ同然に扱われて来たわけで、私もそれと同じ扱いを受けただけである。『市民科学者』を標榜しようとするなら、当然、私もそこから出発しなければならなかった。しかし、自分の側にある種の思い上がりの意識があったから、そのような扱いに特に傷ついたように感じたのである。このこともまた、よい学習材料となった」(PP..210-211,ll..11-2)
「 現在も私たちはこういう嫌がらせの対象下にあり、・・・。・・・、それにしても日常的にこんなことがおこる日本の社会とはいったい何なのか、と考えざるを得ない」(P.215,ll..11-19)
「・・・自分の中に常に存在する思い上がりを指摘されて、・・・」(P.221,ll..2-3)
「
本気
本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる
この『本気』を、もう少し分析していくと、確信と希望ということに尽きると思う。理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現する・・・。・・・・・。だから、私はいつも希望をもって生きていられる。先天的な楽天主義者と評されたが、それでもよい。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。
・・・、この確信と希望は、無数ともいえる人々との出会いから生まれた。・・・、支え励ましてくれた人の多さと質とでは、誇れるものがあるだろう」(PP..221-222,ll..2-17)
「・・・『確信』の役割を強調したが、それは、自分がその実現を信じていないようなことを口先だけの理念で叫んでみても、人の心に響くはずはないと、私の経験から思うからである。
もうひとつ大事なことは、持続である。・・・」(P.238,ll..7-14)
「・・・・・。私が批判してきた企業や大学における科学者・技術者の態度も、主要には『今さら自分が何か言っても世の中が変わるわけではない」というあきらめが支配しているためである。多くの専門家の中に、私はあきらめを超えた、一種のニヒリズムを見た。『人類がこのまま欲望を増大すれば、絶滅するしかないだろう。恐竜も絶滅したのだし、人類も絶滅すればよい。これに歯止めはかからないよ』。
・・・、この様な諦観が現状の危機を放置するどころか加速する方向に働くことだ。その背景には、商業主義によって新たな欲望が常に掘り起こされ続け、あきらめによる人々の不満感を解消ないし回避させてしまうという現実がある。科学技術の”進歩”もそのことに大いに責任がある。
サイバースペースの・・・、つくられた欲望の充足であって、・・・・・。・・・・・。この人たちは、人々のあきらめを組織的に利用して、現状の国家形態・産業形態を基本的に維持していこうとしているのだ」(PP..253-255,ll..12-8)
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評
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2000年6月、東京でグロッキーになっていたとき、偶然巡りあった本である。もしかしたら元気なときに読んでいたら、それほど強い印象を持っていなかったかも知れない。東京駅構内の騒がしいセルフサービスの喫茶店で読み入ってしまった。希望を持ったアナキストたる道をしめしてくれた本である。何かをやろう、やり続けるために必要なこと。失敗を恐れる必要なし。挫折は当たり前。そうやなあ、と、力をくれた内容であり、なおかつ厳しい問いを突きつけてきた。
とりわけ、「行為で語れないならばその胸が張り裂けてもだまってゐ(い)ろ」という萩原恭次郎氏からの引用はズンと応える。
今でも躊躇していること、やらなければならないこと、先送りしていることの多さを反省させられる。あきらめてはいけない、ということを強く感じさせてくれた。
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