高野
悦子『 二十歳の原点 』、 『 序章 』、 『 ノート 』
( 新潮社 1971年・65刷、74年10刷、76年2刷 )
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『 二十歳の原点
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「人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのでなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ」(P.9 ll..1−4)
「私の好きな言葉
・・・・・
『 そうか、よくわかんねえけど俺の信条は、”徹底してやれ!:”っていうのだ。何事でも、どんな悪いことでも。そしたら必ず何かにぶちあたる。それをぶち破るんだ
』」(P.15 ll..2−9)
「私は私の世界を模索し始めた。人はそれぞれ、その人の世界をもっている。しかし、その人が本当に己の世界をもっているとは限らない」(P.23 ll..9−10)
「・・・己の立場をどちらかにして何かの行動を起こさねばならぬ。でなければ、ただすべてを受身に、生きることもなく、死ぬこともなく、生きていくようになるのではないか」(P.27 ll..1−3)
「太陽が東から昇り西に沈むのは偽りの現実である、地球が西から東に自転しているのが真の現実である。その認識を持つとき、始めて主体性あるものとなり生きる現実をもつ」(P.30 ll..16−17)
「・・・・・
絶対に忘れることのない光景である」(P.59 l.2)
「・・・・・。友がいるということは羨ましい。でも私は自己を曲げてまで友を求めようとは思わない。しょせん人間は独りなのである。・・・・・。」(P.67 ll..2−3)
「・・・・・。人は思いを胸に一杯もっているときは沈黙するものであることを忘れていた」(P.81 ll..3−4)
「・・・受動的に緩慢な生活をしていることに気づいた。・・・・・。─ 私は何もしていなかったのだ。独りである自分を支えるのは自分なのだ。・・・・・。」(P.86 ll..11−13)
「独りである自分を支えるものは自分である。
人間は他者を通じてしか自分を知ることができない。悲劇ではないか。
・・・・・。
他者によって写しだされる己れ、自分は何もないのではないか」(P.90 ll..9−13)
「全力投球で生きていくなんて止めた方がよい。人間の寿命は決まっている。煮詰めて生きていれば、生きる年数は短くなる」(P.93 ll..8−9)
「闘ったところで何になる。微弱な風にとぶほこりに過ぎぬのではないか。いやあ ぼかあ こんなことでは負けませんぞ。 ぼかあ 闘ってますぞ」(P.108 ll..15−16)
「自由! 私は何よりも自由を愛す」(P.118 l.13)
「人間が真に人間たりうるのは闘争の中においてのみである。闘争する人間は、大岩におちた一滴の雨粒にに似ている。しかし闘争する人間は、その過程の中で自己自現を行い、自己の完成に向かっているのである」(P.140 ll..14−16)
「生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる」(P.151 ll..3−6)
「全くの独りである。そこから逃れることはできない。
自分を強烈に愛するということ、それが私には欠けていないか」(P.162 ll..8−9)
「人はなぜ生きていくのかって考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私はこのごろしみじみと人間は永遠に独りであり、弱い
─ そう、未熟と・・・。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようとして生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようとして人間は生きているのです。
・・・・・。それでは、私は何を創造しようとしているのでしょうか。それを考える必要があります」(PP..163−164 ..13−9)
「現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味を持つものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉は会っても何の意味もなさない」(P.170 ll..2−4)
「 『 独りである 』とあらためて書くまでもなく、私は独りである 』(P.170 l.16)
「・・・・・。アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし、一切の人間を信じない独りの人間が一体闘争などやれるのだろうか。やれる筈がない」(P.172 ll..6−8)
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『 二十歳の原点
序章 』
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「人間は、自分の目的のために己を律することが必要なのである。私は自分を律するということができない」(P.9 ll..1−2)
「わたしの心の中に詩(うたう)こころがあったなら
あたたかくきびしくつつむ詩う心があったなら
自分のことばかり考えずに
他の人のことをも考える心 ─ 。
・・・・・」(P.64 ll..2−5)
「生きていくには何かをやらなければならない」(P.84 l.13)
「 『 自分の弱さがあったら、その弱さを動くこと活動することによって克服していく。そのことによって進歩するんじゃないか』 けれども私はやっぱり言う。
『 どうしてそうしなくちゃいけないの。やらなくともいいんでしょ 』 自分の弱さを認めまいとし、自分は完全であると思いこもうとしている。自分の場所は絶対安全、くずれおちないものと思っている。エリート的なプライドをもっている。・・・・・。
『 どうしてそうしなくちゃならないの 』 と言った自分が、今では恥ずかしい」(P.85 ll..9−19)
「人間には、二種類の人間があるのではないかと思う。与えられたものをうけとって、それで生きていくひと、それから与えられたものに満足せず、自分の足で、目で確かめ、自分の見方、考え方をつくっていく人の二種類」(PP..126−127 ll..14−2)
「 『 逃げる 』 『 逃避する 』 、私はこの言葉をよく使う。言うことによってその行動を合理化してしまっていた。 『 逃げる
』 といっても結局逃げられず、まわりをびくびくしながら歩いてきたにすぎない。・・・・・。
ひきょうもの! それが逃げる姿勢で歩いているものに与える言葉である」(P.159 ll..10−18)
「私は否定することで、自己を確認していこうと思う。反乱でもいい。反抗ならなおいい。それによって自己を主張していこう。
私がいま危険な状態にいることはしっている」(P.226 ll..3−5)
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『 二十歳の原点ノート
』(14歳〜17歳)
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「今日は貴重な日だった。・・・・・。それに私が物事を広く考え、勇気をもって行動しようと考えた日でもあるからだ」(P.35 ll..6−7)
「生きるとはどういうことなのか。私は死ぬころになって 『 ああ長い人生だったが生きていてよかった 』 というような人生を送りたい。そうあるためにはどうしたらいいか、私はよくわからない。自分というのがわからないし、生と死とか、誠実というもの、そういうのがよくわからない。
生きているということは活動していることだ。・・・・・。そして皆なしあわせを求めている。しかしそのしあわせというものは、いったいなんだろう」(P.59 ll..6−11)
「広い目を持とう。自分自身のことだけで精一杯にならずに」(P.101 l.6)
「── 愛されている自覚は、生きようとする意志である
── 」(P.115 l.16)
「苦しいときに自分との戦いが起こり、その戦いによって私たちは進歩する。でも 『 進歩 』 っていうのは一体なんだろう。
・・・・・。苦しい休みたいという 『 己 』 をおさえることに意義があるのではなく、自分の目標、目的に一歩でも近づいたことに意義があり喜びがあるのだ。人生五十年、その間に人間は目標に近づこうと努力し、その目的を達成した時に幸せを味わうことができるのである。だから
『 一歩前進 』 ということも長い目で見れば 『 喜び 』 かも知れないが、 『 進歩 』 すること自体が目的でなく、目的に到達するための
『 手段 』 に過ぎないとおもう」(PP..119−120 ll..11−1)
「幸福とは長続きのするものではない。永続する幸福というものはない。よりよい生を得たときから、またよりよい生が生まれてくる。それでも、私達はしあわせを求め生きていく。そのしあわせは、年とともにいろいろ変化していくだろう。・・・・・。けれども私は、今自分が何を求めているのかをよくしり、自分の心に従って生活するまでである」(P.168 ll..11−16)
「人と話をするのは、優越感を持つためでもないし、利益を得るためでもない。感情を、心を、思想を知り合い、お互いに同一になろうとするためである」(PP..179−180 ll..20−1)
「自分の本当の感情は底に沈ませて、装うぐらいの人でないと、自分の信念を行動には移せない」(P.218 l.16)
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評
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ほぼ20数年ぶりで読み返した
『 20歳 』シリーズである。生きる元気が一杯つまっているのに、その作者が自らの命を絶ってしまったとは、真に皮肉である。全てを時代のせいにできないが、まさに彼女が生きた70年代の学園紛争の、その時代だったからこそ、このような結末になったのであろう。しかし、過去の日記をよんでみても、深く、激しく生き抜きたいという欲求があふれ出ている。悩み、苦しむことは年齢に全く関係がないことがわかる。
「全力投球で生きていくなんて止めた方がよい。人間の寿命は決まっている。煮詰めて生きていれば、生きる年数は短くなる」(P.93 ll..8−9)まさに、全力投球した人生であった。
感情を押し殺したがゆえに、信念ある自分の行動を最後まで貫いた。私はリッパだと思う。
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