トルストイ / 米川正夫訳 『 光あるうちに 光の中を歩め 』
( 岩波文庫 1986年第62刷)

犬養道子 『 幸福のリアリズム 』
(中央文庫 1984年)


ひまな人の話
(プロローグ)

「ある富裕な家へ客が集まったことがあった。ふとしたことから、人生問題に関するまじめな話が始まった。
一同はその席にいるひとやいない人の話をしたが、自分の生活に満足している人間は、一人も見出すことはできなかった。
だれ一人として、幸福を誇ることをできなかったばかりでなく、自分こそキリスト教と・・・」(P3 ll..1−5)・・・・・
「『 なんという不思議なことだろう? 』と一人の客が言った(彼はしじゅうう口をつぐんでいた)。 『 なんという不思議なことだ!みんなが口をそろえて、神のみ旨にかなった生活をするのはいいことだ、われわれはよくない生活をしている、霊魂も肉体も苦しんでいる、などといっているくせに、いざ実行という段になると、子どもに打撃を与えてはいけないから、神の命令によらないで、昔どおりに教育しなければならない、ということになってしまいます。若いものは両親の意志にそむかないで、神のみ旨に添わない昔どおりの生活をしなくてはならない。老人はやれ長い間の習慣だの、れあと2日しか寿命がないのと言って、何一つ始めてはいけないことになる。結局、だれ一人としていい生活をすることはできない。ただそれを談ずるだけならさしつかえないわけなんですね。」(PP..9−10 ll..10−1) 

トルストイの『 光あるうちに 光の中を歩め 』と 『 人はなんで生きるのか 』とは一緒に読んだ方がいい。無信仰を自認する私であるが、この2冊からは学ぶべき点が多い。 『 光あるうちに 光の中を歩め 』は本文よりもそのプロローグにひかれた。また、 『 人はなんで生きるのか 』(他4編)はキリスト教の影響がつよい民話や逸話であるが、それは読む人が何をこの本から得ようとするかで、その宗教色を払拭できると思う。このトルストイのキリスト教の精神は、『 幸福のリアリズム 』に通じるところがあると思って、ついでに犬養氏の著作を取り上げた。何が人間の幸せか。その幸せを感じる心はどこから出てくるのか。迷いはどこから出てくるのか?具体的に考えさせてくれる書物である。青木雄二氏の唯物史観とは正反対にあるようだが、人間の生き方に関しては、私には同じように感じる。これらの本には、愛とか感情とか心とか理想とか理性とか、とらえどころのつかない問題を整理するためのヒントがちりばめられている。
さらに、この本を土台にして感じた考えたことから、社会の矛盾に対してどう個人は対処(行動)するのか、それがあってこそ、これらの著作の価値が重みを増す。心の持ちようで満足していてはダメだ。

追加− 『 幸福のリアリズム 』(講談社文庫)

「詩と勇気」

人間の幸福とは、どこまでその人が、自分以外の外の世界に向けて自らを開くことが出来るかどうかに、大きくかかわる。知性において、感受性において、心において、肉体において。開かぬことはただちに、自己閉鎖性につながり、生育も成長もよろこびもなくなる」(P28 ll..1−3)
「・・・おそれ(怖れ)が心中に起こったら、顔をそむけたり、逃げようとしたり、忘れてしまおうとしたり、気晴らしを求めたりしないで、それに勇ましく、正面から立ち向かい、両手で受け取ってしまう、のだ」(P32 ll..1−3)
「『 耐える(忍耐) 』とは何かしら 『 あきらめる 』に通じる受け身の態度と思っている人が日本には多すぎるのではないか、耐えるとは実は、受け身ではなくて積極的な心の持ち方だと私には思われる。耐えて待つのだが、だた待つのではなくて、いろいろと試みながらマツ。試みるためには時もたっぷり必要なのである」(P39 ll..11−13)
「理性をもって考えてみるとすぐわかるのは、自分をあわれみ出したら(そしてひそかに、自己をあわれむことをたのしみだしたら)、予想外の時間とエネルギーが、そこでつきはててしまうのである。しかも、いくらあわれんで自分の不運をかぞえたてようと、事態はいっこうによくならない。よくなるどころか、あわれみによって雪だるまのように次第にふくれ上がっていく 『 不運感 』によって、事態は事実以上に 『 わるくされてしまう 』・・・・・。
愚痴にはまりこまないこと。
自分を可哀相だと思わないこと。」(PP40−41 ll..8−2)
「人生は全く逆説に満ちたもので、 『 この自分こそかわいそう』 『 この自分さえらくになりゃいい 』だとと、自分ばっかり見つめている屈折した眼の持ち主は、かんじんの自分さえ幸福にしてやれないのである。
むしろ、自分から眼差しをはなし(これも勇気が必要だ)、リアリティを直視して、どんな困難もまっすぐ両手で受け取ってしまうと、自分をまず第一に含めて、解決への道の第一歩にのることが出来る」(P47 ll..9−14)

 

「日記のナルシシズム」
「思うに、人間を、幸福から一番遠いところに確実につれて行く親玉はふたりいて、そのひとりは嫉妬。もひとりは 『 自己憐憫 』。ともに 『 自己中心・自我の内に閉じこもる 』こと」(P.56 ll..16−17)
「 『 幸福論 』を書いたヒルティも、・・・ 『 とかくナルシシズムに(軽症にせよ)おちいりがちの危険を伴う、日記書きの習慣が、いかなる悪を秘めているか・・・」(PP59−60 ll..17−1)
「なぜなら真の幸福とは、 『 ものごとすべてうまく行く 』ことではなくて、包囲され閉鎖された心をまず、自由に向かって解放する努力−不断の努力せと創造力に基礎を置くからだ」(P67 ll..7−8)
「ここから、論理はおのずから、一つの結論を引き出す。
手記を書くことを止めよ。
・・・・・。
手記や日記を書くひまを、エネルギーを、時間を、全く心機一転を可能にしてくれる 『 何か 』 『 夢中になれる 』楽しみやレクレーションさがしに・・・」(PP..67−68 ll..10−1)
「年をとること」

「死について考えないのは、生について考えないことになる。考えずにすむような 『 何となく 』つづいて行く生なら、生の意味はない。生きなくてもよろしい、とさえ言える」(P.78 ll..4−5)
「だが。
だれにでもあり得る可能性、というこの常識そのものが、 『 業病や全身不随の長わずらいや金力不足等の苦 』が、人生の−全ての人生の−リアリティの一面だということを物語る。さればこそ、人生につきまとうそれらの苦を、 『 共通の人間苦 』と解釈して、少しでもやわらげようとつとめつづける人々は、最も人間的な人間なのである。国籍も民族も、イデオロギーや立場も、すべて超える、これこそ 『 公平・共同 』の苦として、その苦を少しでもとりのぞくべく挑む人々こそは、人間の普遍性を身をもって知る人々である。
・・・・・。
それなら、 『 起り得る 』という事実、現実を前もって受け入れてしまう方がかしこいように私には思われる。・・・・・。
まだ現実に来てもいない 『 いつか将来 』 『 起り得る 』ことを思いわずらうのは愚ではないか」(P.81 ll..1−13)
「くどいがもう一度くりかえず。挫折なき人生はない。死別なき人生もない。それらはすべて人生のリアリティだから。
それなら、どうやら、人生の幸福−最根本的な意味での幸福−は、それらの直視、それらから逃げまどわぬこと、からはじまるように思われる。
直視とは、かなし、つらし、あわれ、と言いつつ涙をふきつつ耐えることではない。むしろ、それらを受けとめて、その中に人生の秘義をさぐり、こちらから働きかけること、である。
要するに、徹底したリアリストになることだ」(P.84 ll..1−7)

「プレゼント」

「思うに。
『 きれいなところ 』とかは 『 美しいもの 』とかは、自体としては存在しない。すべての事象は、朝焼けのマッタホルンから輝きわたるアルプスの星空、さては露に光る秋草等々まで、自体として中立性のもの、である。それが 『 美しい 』 『 きれい 』となるのは、それを見て驚いて味わう、人の心の 『 プレゼンス(プレゼントの名詞) 』を経てのみ、である」(P.119 ll..12−17)
「心という、これぞ人生幸福のカギをにぎるものの訓練については、ほとんど投げやりなこと、である。もしくは 『 心の訓練 』だのは 『 修身で古い 』と言って無視したり、土台、心に訓練など要らぬものと決め込んでいたり。知識を司る理性には訓練は大必要と、だれも知っているくせに、心だけは例外視する。少し理屈に合わない。リアリズムがない。
心も、人間という 『 日々、成って行く存在 』 『 育っていく存在 』の一部−と言うより、人間を人間たらしめる中核−である以上、どうしたって訓練してやらなければ可哀そうだ。 『 自分を大切にする 』という言葉を、人は大そう好きである。ところで、自分というかけがえのないものを大切にするとは何を指すのか−からだや理性等をいたわっって育てて訓練すること、そして、何よりもまず、っころを育てて訓練してやること、ではないのか」(P.122 ll..7−16)

「一輪の花」

「心中も、数ヶ月に少なくとも一度のわりあいで、大整理されなければならないと・・・。」(P.147 l.2)
「が、ここで負けては行けない。
戦うのである。
人生は闘いだ。
しかも−多くの人が否定的なことを言うが、その闘いは、勇気あるすべての人にとって、勝利のすでに約束さされた闘い、なのだ。・・・果たそうとする者にだけ 『 実現 』するものなのであって・・・。
心の整理は、実は一生の一大事業だ。
・・・、失敗してもがっかりしないでやり続ける・・・。(P.148 ll..2−14)

「双眼鏡と引き出し」

「・・結論が出たら、その結論を全力をあげてやること。ためらってはいけない」(P.163 ll..1−2)
「人生の出来ごとすべて 『 片や百 』 『 片やゼロ 』のように、かんたんではないのだ。さればこそ、整理が要る、のだ」(P.163 ll..11−13)
「タイミングというのは存外、大事で、しかも 『 よいタイミング 』は、一度しかない。
踏み切る、のだ」(P.166 ll..3−4)
「ふと、気がついた。いかに泣こうとわめこうと、 『 いままでの時 』 は 『 去った 』のだ。 『 あのときこうしていたら 』 『 あのとき、あれをしていたら 』など、いくら、何十時間考えたとて、去った時は戻らぬ。戻らぬものを、ああでもないこうでもないとひねくりまわして泣いて、 『 いま 』という、これこそたったひとつの現実を、再び無にして過去の中に、次から次へと追いやるこの愚こそ、棄てねばならぬ、と。
「恐怖というもの自体、しかし、ぜんぶがぜんぶ 『 虚像 』なのだ。それは 『 前もって 』 『 実体のないところに 』 『 自分が勝手に 』つくり上げたもの、なのだ」(P.170 ll..17−19)
人間とはおもしろいもので、毎日の中の、ある一定の時間が、受け身・惰性になると、それはそこだけにとどまらず、生き方ぜんたいが、何となく受け身・惰性の方向にひきずられて行ってしまう」(P.184 ll..6−8)

「ソマリア人」

「 『 愛 』とはいたい何なのか。
愛ははかないものだと言った人に出会ったことがある。
『 うつろい変わるから 』
そうだろうか。どうやらその人は、 『 好ましいと思う気持ち、好きという感情 』を、愛だと勘違いしていたと思われる。
好ましいという気持ちや、好きという感情なら、はかなくうつろい変わることがあり得る−どころではなく、うつろいかわるのがまず当然なのだ。なぜなら、気持ちというものは、こちらが成長したり、相手がこちらに何か反したようなことをしたりすれば、ゆるぐもの、だからだ。感情というものも、まあ、あてにならぬことおびただしい。天気が変わっただけで、弱くなったり、動揺したりするのが人間の感情である。
『 愛はうつろうことがない 』と、いにしえの聖者は言った」(P196 ll..1−10)
「なるほど、理想というものは、うつろいやすい情や気持ちとはべつの、理性や意志に根をおいている、理想というものはそうそう変わるものではない・・・、人生観というものにしても人生をどう解釈するかという、理性のものだ・・・・・なるほど。してみると、愛というものには−不動の愛というものがもしあるとするなら−理性と意志も入って来るのかな」(PP..197−198 ..15−3)
「・・・人間と人間を 『 ゆるぎなく 』結びつける 『 愛 』が理性と意志を伴うように、 『 愛の表現 』もまた、当然、理性と意志を伴うのだ」(P.198 ll..13−14)
「・・・ 『 愛 』は、自分にはねかえることを知らぬ。いつも自分が中心で、すべてをいわば自分という 『 一番かわいいもの 』に引きよせてしまうことを知らない。自分の中に閉じこもってしまうことをしない」(P.203 ll..15−17)
「・・・血を分けた、そして気持ちや情をとして 『 大好きな 』わがこや兄弟がいま現在困っていず、見たことも会ったことこともんあい遠い異国にいま救わねば餓死して行く貧民がいるとき、彼らこそ 『 いまの私の隣人 』とみなして、こころをつくして知恵をつくし力をつくして、ほんのわずかなりと助けようとしがじめるにちがいない。
が−
理屈はそうでも、それは難い!」(P.106−207 ll..15−3)
「そして私は確信する。
愛を生きる、愛を生きようとする日々求めつつ努める、それだけが、それこそは、人生の生きがいなのだ、と。
ほかのすべてのいわゆる 『 生きがい 』−−料理で生きがい、子供の教育が生きがい、仕事が生きがい等々−−は、ほんものではない。それらはたかだか、自分をあやし自分をよい気持ちにさせるに足るだけの(少し酷な言い方をすれば)おもちゃである。
それに第一、仕事や趣味などが 『 生きがい 』を与えるものであるならば、仕事も出来ず趣味にも打ち込むことのできない寝たきりの病人や身体障害者や食べるだけがやっとの貧しいひとに 『 生きがい 』は高嶺の花でしかないことになる。
生きがいとは、健康・病気、金持・貧者、五体満足・身体障害者の差なく、万人のすべての人生に、日々毎日なければならないもの、なのだ。
のぞみを一切託せる子供があってもなくても、ひとりぼっちでも、若くても年老いていても、どこの国のどんな人にも、 『 生きがい 』はあり得るもの、なのだ。
が、・・・ひと口に言えば 『 とくべつなことをする 』ことではなくなる。生きがいを、いまの日本人がまちがって解してしまっているのは、それを 『 何かすること 』 『 何か持つこと 』と思っているからではないのか。
いや。
生きがいとは、 『 何かをしたり 』 『 持ったり 』とは、全く次元のちがう、 『 在り方 』 『 生き方 』そのものの中にだけ、存在し得る。 『 在りかた 』 であり 『 生きかた 』であるからこそ・・・」(PP..209−210 ll..6−11)
「・・・・・。そして、その動力は、 『 他者を思う心 』愛だったのだ」(P.212 l.9)

「存在の欠如」

「肉体において知性や感受性において精神において、人間は 『 自分以外の 』 『 自分以上の 』 『 他者 』を必要とする。ここにこそ、人間存在の一大条件があるのであって、これを 『 自分以外あるいは自分以上のものなど、小癪だ、不要だ 』と言って棄て去ろうとしたとき、人間は何も出来なく成ってしまう。
私は、現代人の 『 罪不在論 』や、 『 罪からの救いの必要一切皆無論 』の裏には、自分以外・自分以上のものの存在とその必要を認めたくないというおごりの気持ちが多分に働いているといいつも思っている」(P.228 ll..4−11)
「ゆえにこそ−
人間存在の欠陥欠如(罪)からの救いは、人間の中にない、人間の外にあってつねに人間の求めを待っている、真なるもの善なるもの美なるものから来るとするのが、真の宗教である。
だから、・・・ 『 いやあ、宗教なんてまっぴらさ、ぼうは宗教はイヤだなあ 』と言う人であっても、哲人カントのいわゆる 『 より偉大にして真なるもの 』へのつよいあこがれを持つ限り、その人は、真の 『 宗教的なひと 』なのである(P.230 ll..11−17)

「人間の苦」

「現代はおごりの時代。
・・・・・。
個々としても集団としても、われわれ人間の中に、多かれ少なかれ、我欲がある、自分さえよけりゃの利我があ、顕示欲がある、利害の打算がある、物欲や所有欲がある、羨望心や嫉妬心や、偏見や、ひとりよがりや、他人を傷つけてみたい意地わる心や、ものごとの大局・総合を見ることを忘れてちっぽけでせまい目先の一点だけにしがみつく智のくらさ(・・・・・。)がある。怠惰心がある(P.238 ll..1−12)
「父親がふと言った、 『 おまえはとても、自分の時間を大切にする子だね。少し大切にしすぎるくらいじゃないのかね。それも一種の所有欲なんだよ。時間は富だからね。その欲を棄てて、おまえの富をひとつ、だれかと分かち合ってみたらとわたしはおもうよ 』」(P.242 ll..13−17)

「希望」

「・・・すなわち−人間は、この上なくすばらしい可能性と能力をもっていると同時に、自分の中に答えを持っている者ではない、という一事。
・・・、まず、自分以外のもろもろの善きものに対して、自分を開き、開くことによってそれら善きものを受けねばならないという一事」(PP..254−255 ll..16−3)
「・・・常識ある一般人だが、倫理の歯止めをちゃんと守る場合ですら、 『 いまのうちに 』 『 たのしんでおく 』考えの含むものは、刹那主義であり、皮肉にも、刹那主義は人を決して、ほんとうにたのしませはしないものである。それは 『 気晴らし 』であって、 『 幸福感 』とは少々ちがうものを、ちょっぴり人間に配給してくれるにすぎない。その上に、たのしい 『 刹那 』があとからあおtからやって来てくれるとはとても言えない。刹那主義も利己主義も弱肉強食主義も、究極的には逃避なのである。悪や苦や死のリアリティを可能な限り見ないで通る逃避主義
かと思えば、逃避はしないが、それらを宿命としてあきらめてしまう暗い態度。乗りこえ創造して行くことの可能な人間能力を三分の一も使おうとしない弱者の態度」 (PP..258−259 ll..14−3)
「・・・・・。つまり、人間は、うれしさよろこび(慰めや勇気も含めて)にこそ生の甲斐を見出す存在なのだということを束の間にせよ立証する秘義。・・・・・。
もっと言うと、人生の甲斐と意味は、悪や苦や死などの、おぞましいみじめなものとは無縁の、心を飛翔させるよろこびうれしさ−・・・・・。
しかも、その体験のきっかけは、ほとんどの場合、外から来る。来たものを受けたとたんに、人はよろこびやうれしさを内にそう創造する」(P.260 ll..4−14)
主体性を与えられた人間の自由なる選択と行為−・・・」(P.271 l.8)
「そして人間の日々の体験は、 『 このわたしさえよけりゃ 』のひとりぼっちにしがみついたとき、ありとあらゆる無理がさみしさと共に湧いて出てくることを、決してよろこびの訪れないことを、私たちに告げてくれる。古めかしい言葉を使えば、私たちひとりひとりは、もろもろのえにし(縁)の中に生き、もろもろのえにし(縁)を創造しあって生きるもの、ではなかろうか。 人生は出会いだという、しばしば何気なく使われる表現は、実は深い秘義に触れていると私は思われる」(P.272 ll..10−15)