「 いのち、が見えない。
生きていることの中心がなくなっ
て、ふわふわと綿菓子のように軽
く甘く、 口で噛むとシュッと溶け
てなさけない。
しぬことも見えない。
いつどこでだれがなぜどのように
しんだのか、そして、生や死の本
来の姿はなにか。
今のあべこべ社会は、生も死もそ
れが本物であればあるだけ、人々
の目の前から連れ去られ、消える。
街にも家にもテレビにも新聞にも
机の上にもポケットの中にもニセ
モノの生死がいっぱいだ。
本当の死が見えないと、本当の生
も生きれない。 等身大の実物の生
活をするためには、等身大の実物
の生死を感じる意識をたかめなく
てはならない。
死は生の水準器のようなもの。
死は生のアリバイである。
MEMENTO−MORI
この言葉は、ペストが蔓延り、生が
刹那、享楽的になった中世末期
のヨーロッパで盛んに使われたラ
テン語の宗教用語である。 その言
葉の傘の下には、私のこれま
での生と死に関するささやかな経
験と実感がある。」
( 「 ちょっとそこのあんた、顔がないですよ 」 )
「 ・・・・・。
あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、死は病ではないのですから。
・・・・・。
動物は自然を真似る。
自然を真似るということは、自然の中にある
道徳 ( モラル ) を真似るということです。自然は生存の
ための道徳の構造を備えている。それを写実
していくのが原初の宗教です。・・・。」
( 「 乳海 」 )
「・・・・・。
肉親が死ぬと、殺生が遠ざかる。 一片の
塵芥だと思っていた肩口の羽虫に命の圧
力を感じる。 草を歩けば草の下に命が匂
う。 信仰心というのはこんな浅墓な日常のい
きさつの中で育まれるものか。老いた者の、
生きものに対するやさしさは、ひとつにはそ
の人の身辺にそれだけ多くの死を所有したこ
とのあらわれと言えるのかもしれない。
・・・・・。
( 「蝶翳 」 )
「・・・・・。
ひとがつくったものには、ひとがこもる。
だから、 ものはひと心を伝えます。
ひとがつくったもので、ひとがこもらないも
のは、寒い。
・・・・・。」
( 「 紅棘 」 )
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