フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2004/07/05 第31号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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2002年10月から立て続けに海外に出ており、メールマガジンを
定期的に発行できない状態が続いております。発行元から2003年
12月、停止の恐れを通告され、だましだまし発行を続けている状態
です。今回もまた通告が来ました。

中米グアテマラに滞在中ですが、知人の I 氏がこの7月の選挙に出
ることになり、その応援メッセージとして書いた一文です。これを今
回もメールマガジン代用したいと思います。悪しからず。
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■第31号■

「自分のために」

5月15日(土)の昼過ぎ、5年ぶりに首都グアテマラシティーにやってきた。雨期の始まりであろうか、午後3時頃、分厚い灰色の雲が空を覆い、雷を伴う雨が降り始める。雨粒というより、石畳の地面に水玉模様の跡を残す、大粒の水滴が落ちてきた。

大聖堂前の中央公園で話をしていた石川さんと私は、そんな雨から逃れるように、近くの米国系ファーストフード店に入った。

石川さんは、このグアテマラに住んで約12年、現地のNGOに深く関わっている人である。この国に特有の味の薄いコーヒーをすすりながら、私は彼女に、久しぶりに訪れたグアテマラの感想を話してみた。

「今回はまだ2週間しか滞在していないけど、なんか、ほっ、とした軽さを感じますね。まあ、TVや新聞で見るかぎり、一般犯罪は相変わらず多いようですけど、この数十年間、生活の中にしみ込んでいた軍への恐怖がなくなったような感じです。間違ってますか?」

石川さんは、だいたいにおいて、同意してくれた。

「確かに。でも、過去の事件で、同じ村に加害者と被害者が一緒に暮らしている状況なので、一見平和に見える村の中にも実は、癒しきれないモノがいまだ残っているんですね。それでも、軍への恐怖はなくなった。それは、そうですね。」

子どもの足をつかんで、頭部を岩に叩きつけて殺害する。あるいは、殺した身体の一部を切り取り、口に突っ込み、見せしめのために道路に放置する。

軍の暴力を背景にした、そんな目に見える恐怖はなくなった。それは確かであろう。内戦が終結してよかったことは、毎日の暴力が減ったことだ。

しかし、見えなくなったから問題がなくなったわけではない。というか、この国の抱える問題は解決されないまま、忘れ去られようとしている。

「8年前からずっと、グアテマラに来たかったんです!」。そんな日本人女性に先日、出会った。1年間、この国に住むんだ! そう言って、張り切っていた。

彼女が最初に落ち着いたのが、グアテマラの中の「異国」、観光地で名高いアンティグア。そこで現地の人の家に下宿しながら、少しずつスペイン語を勉強しつつ、現地生活を楽しんでいる毎日だ。

しかし、そんな彼女が偶然、『虐殺の記憶』(岩波書店)を手に入れ、読み始めた。別の日本人は、その内容の重さに最後まで読み切れなかったと いうシロモノだ。

彼女は、つい20年ほど前に起こったグアテマラの暴力の歴史を知ってしまった。

「すごい国だったんですね。先住民の美しい衣装の国じゃないのですね。こんな国で、じゃあ私たちは今、一体、どうしたらいいの」

本を読んで、この国に関わる当事者になってしまったようなリアクションにも驚いた。こう言うしかなかった。

「確かに、この国の歴史はむちゃくちゃだけど、それはどんな国にもあること。この国が好きだと言うなら、今のこの国はどうなっている。それも知った方がいいじゃないかなあ。特に先住民族のことを」

でも、外国人として、何を知ることができて、何を知ることができないのだろうか。

今のグアテマラには、一見暴力のない、平和になった日常生活しか見えない。そんな平和な暮らしは、日本に帰ってしまうと、とりたてて意識されないだろう。

ショッキングな事件の被害者・加害者は記憶される。だが、たとえば交通事故の犠牲者は記録されるが、当事者となった近親者や友人以外の者には記憶されることはない。

それゆえ、市井の日常生活はありふれているからこそ、歴史には残されることは少ないだろう。そう、歴史という形で残された記録はこれまで、果たしてどんな取捨選択がなされてきたのか。その基準を、何かのきっかけで考えることができればいい。

自国民が犠牲になれば、当事者顔をして大騒ぎ。他の国の人の生命が失われても、単なるニュースに扱い。今の私たちの生活は、命の重さが平衡ではないことに気づきつつ、それをはっきりと指摘されるのを嫌うようだ。

何も考えなくてもいい、現状維持的な平和生活は、もしかしたら誰かの犠牲に上に立っているかもしれない。そのことを指摘されるのも嫌う。

たとえば私は、グアテマラも含め、中米各国や東南アジアのゴミ捨て場で働く人びとの写真を撮り続けている。すざまじい貧困の現実である。もちろん、多くの子どもたちも働いている。

写真を見た感想は、同じようなものだ。

「過酷な状況の下でも、汗水流して働いている子どもたちの姿に感動しました。そんな彼らの姿を見て勇気が出ました。飽食の日本の姿を反省しました」

これが大勢である。

しかしながら、なぜ彼らがそういう生活をせざるを得ないか、どうして、貧困の生活を受け入れざるを得ないのか、その背景にまで想像を巡らせた感想はきわめて少ない。彼らの存在はあくまでも、対岸の悲劇のままである。

飽食の一方で、飢餓がある。自然の生み出す産物は一定だと思ったことがある。本来なら他者が享受すべきモノまで、それが当然のように偏ってしまっている現実もある。

厳しい状況下で生活する人びとは、毎日の生活に追われ、自分たちの生活をよくするために、ほんの小さな声を上げることもできない。上げようと考えることさえ放棄させられている。

強い者が得る。それは、自然界の厳しい掟かもしれない。そこには一考の余地はないのか。しかも、あたかも、公平・公正な立場で競争がなされているように、強者は錯覚したまま。

ゴミ捨て場でのギリギリの日常生活は、今も続いている。為政者にとっての恥部となる現実は公にされることは少ない。その事実は、時代と平行して記録に残されることは、これまた少ない。

グアテマラの(経済的な)貧しさ、エルサルバドルの貧しさ、カンボジアの貧しさ、フィリピンの貧しさ。太平洋を隔てた国の間に、貧しさに共通点があるのでは?

現場を歩きながら、ふと、気づいた。もしかしたら、日本(先進国)と関わりがあるのかもしれない? 外国の富や資源の収奪をつづけているかもしれない。そう、指摘されるのを嫌う人々もいる。

話は変わるが、グアテマラに入る4ヶ月前、私は、東南アジア最後の軍事政権国家ビルマに滞在していた。ビルマでは、かつてグアテマラでおこったことが、今、起こっている。

政府批判をすれば、人生を捨てなければならない社会がそこにある。

ビルマ滞在中、びっくりするようなことがあった。アウンサンスーチー氏を支持する人びとが約20名ばかり、小さなプラカードを持って道路に立ったのだ。

小雨降る中、無言で立つ人びと。軍事政下で、政府の意に添わない行動をすれば、その後何が起こるか、容易に想像がつく。

軍部に対して、拳をあげることはできなくとも、抵抗する人がいた事実は動かせようがなかった。私は写真を撮った。それは、私が外国人だから許されたことだ(数時間後、私はビクビクしながら飛行機で隣国タイに出国)

外国人だからしか(こそ)、関われないことがあることもった。

自分たちの住む社会をよりよくしようとする人びとはどこにでもいるし、実際、いた。小さな声は止むことがない。その止むことのない動きは、実は、権力者をおびえさせている。そのことも、知った。

声を上げることの許されない社会。毎日、恐怖を感じなければ生きていけない社会。そんな社会はまだまだある。果たしてそれは、外国のことだけだろうか。

沢木耕太郎氏の著作に「シジフォスの四十日」(『馬車は走る』文春文庫)
というのがある。石原慎太郎氏と美濃部亮吉氏とが東京都知事選を闘う様
子を、石原氏の陣営から綴った作品である。


結局、当時の石原氏は破れた。その敗因を石原陣営の参謀、浅利(慶太)
氏、と牛尾(治朗)氏が語る場面がある。

「 (ふたりは)、口をそろえて、『都民の判断は賢明だった』と言う。
美濃部を叩き、僅差に迫い込みながら石原を当選させはしなかった。石原
に対する不安というのは、『ファッショ的』などということより、もっと
本質的なところに根ざしていたのではないか。都民はそれを敏感に感じ取
っていた・・・・・・。」

この石原氏の本質的なモノとは何なのだろうか。沢木氏は当時、遠回しに触れている。

「だが、この(石原氏の)細心さが人と対応する時に発揮されない、とり
わけ、不潔であったり無能そうであったりする者に対して、苛烈とも思え
る言動をとることがある。まさにこのような人々にこそ優しさは必要なは
ずさったのだが・・・・。」

また、石原氏が、ホテルのボーイを叱りつける場面もあった。それは必要以上に激しい叱責であった。立場的に弱い者を、力がないが故に叩いていた。沢木氏は選挙の結果をこう結論づけた。

「彼は(石原)自分のために戦い、自分故に破れた。」

今、石原氏は東京都知事である。かつて、氏の醸し出す「苛烈さ過酷さ」にノーを突きつけた東京都民は、現在はそれを積極的(得票数を見れば一目瞭然)に受け入れている。

都知事選に投票した、誰もが権力者の過酷さが自分の方に向かないと思っている。しかし、誰かがスケープゴートになっているうちはいいが、そのうちその役割が自分の方に割り当てられるかもしれないのに。

現実問題として、日本社会は変わった。それをまず受け入れなければならない。考えなければならないのは、どうして、彼(石原氏)が受け入れられる土壌ができてしまったのか、ということだ。

力の論理が今、東京・日本を含め、世界を動かしている。個人活動している自分は、はっきり言って、怖いな、と思う。でも、コワイコワイ、とばかりは言っていられない。

ビルマやグアテマラから見ると、日本社会はまだ、「それ以上でも、それ以下でもない」生活をしているように思える。不安を抱えながらも、微妙なバランスを保ちながら生活しているようだ。

今の自分は、自分のできる役割をどう果たしていくのか、自分なりに、小さな声にどう耳を傾け、意識し続け、行動し続けるしかない。それには、まずは自分の身を守る戦いをしていかなければならない。

強者だけの歴史を残してはならない。

グアテマラのファーストフード店。お代わりした2杯目のコーヒーも冷え始めたころ、石川さんにこう話した。

「個人的には、 I 君には『平和』を語ることだけの活動を続けてほしくないなあ。平和を語る正論はもちろんだが、まずは自分自身のために戦い続けてほしい。自分を信じる力、それが説得力をもつものなら、彼の動きは広がっていくだろうから・・・。」
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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