フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2002/04/28 第25号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第25号■

<大型連休スペシャル>−長文です−

「かつて鏡に向かったことがあった」

フィリピンと韓国での取材と報告が一段落した先日、久々に自らの意志で休みを取った。なんとなくリラックスした日だった。ちょいとゴロリと横になってTVでニュースを見ていた。

窓に水滴が跳ね始めた。春の天気はよく変わる。ピーカンの青空と雨模様の空が入れ替わ日々が続いていた。雨粒を見て、反射的に時計を確認する。夜の9時18分だった。

TVのニュースを見終わった後、さあ、どうしようと一息つく。手元には、ビデオ『ビートニク』を借りてきていた。昨年、劇場公開されていたが、見逃してしていた作品だ。やっぱり休みだから、心おきなく「ビート」に浸ろう。そう思ってビデオを見始めた。

おお、出てる、出てるぞ。動いているケルアックが。ちょいと感動ものだ。オムニバス形式の内容が鼻につくが、まあ、そうそうたるメンバーが出ているから、内容なんてどうでもいい。

アレン・ギンズバーグ、グレゴリー・コルソー、ニール・キャサディー、ウイリアム・バロウズ、ゲイリー・シュウナイダー、などなど。50年代から60年代の米国社会の底を揺り動かしたビートニクスたちの姿だった。

23歳の時、落ち込んでいた自分の生き方を大きく揺さぶった輩たちである。あの頃の私の魂(ソウル)を射止めた人たちであった。自分の思想と魂(ソウル)を凝縮させる、決心させる。そして、自分の信じる信条に従って行動する。そういう生き方の手本を示した輩たちである。

どのように生きるのか。生き続けるのか。それは自分にとって、今も昔も変わらぬ、答えの出ない永遠の課題かもしれない。今も16年前のあの頃を思い出すと、胸が痛くなる。

でもその時感じたココロの痛みを、なんやかんやいいながら、うまくやり過ごすことができたと思うと、その記憶を思い起こすだけで、今、目の前に迫りつつある不安な状況もそのうち何とかなるのではないのか、そう思える。

いや、そう思い込ないと、この、今の毎日のしんどい日々は過ごせないのかもしれない。ちょっと情けないが。決断と行動<D&A>。難しいんだな、まったく。

1996年の5月だったと思う。米国から日本に戻ってきた。ショックを受けていた。何がショックだったのか分からない。ただただつらかった。

形ばかりの留学(学業)を9カ月で終えた。その後約1ヶ月間、大陸横断バスで米国をほぼ1周してきた。この計10ヶ月の経験は、逆カルチャーショックを十分過ぎるほど自分の中に産み出した。そのせいだったろう。

苦しくて、ただ苦しくて、毎日をすごすのが苦痛だったバージニア州ノーフォークでの9カ月の日々。思い出したくない記憶である。今、持っているその時の思い出の品は、まだまだ現役で使っている不格好な高さ15cm、奥行き5cm、幅20cmの目覚まし時計くらいな物だろうか。

蛍光塗料の文字盤は、いくつかはげ落ち、電池入れのカバーもなくなっている。ベトナム人のルーにこの目覚まし時計を貸したときに、彼がカバーを無くしてしまったんだったっけ。

しんどかったバージニアの生活の中で、ルーとの思い出だけは、なんとなく懐かしい。ベトナム戦争後、ボートピープルとなってアメリカにたどり着いたルーの母親は、米国人と再婚した。ルーは幼少の頃に米国に来たおかげで言葉にはなんら不自由していなかった。

ルーは、高校を卒業した後、中華料理屋でしばらく働いて学資金を稼いでいた。そして1985年、N大学の1年に入学した。だから彼の年齢は私とほぼ同じだった。

はっきり言って成績は良くなかった。カンフーが好きで、よく部屋の中で腕立て伏せや腹筋、ヌンチャクを使ってトレーニングしていた。それを同部屋のマイクがからかっていた。

同部屋となったマイクはノースカロライナ出身のおとぼけやろうだ。彼は、性格は明るく、気だては良かった。だが唯一の欠点は、生活にだらしなく、寝るときにロック音楽をガンガンにかけて寝るヤツだった。

こんな状況でよく眠ることができるな。そう思うほど、ラジカセの音量を目一杯上げて部屋中音が鳴り響いた。

すぐに、不眠症になった。かといって、マイクに遠慮して、音楽がうるさい、と云えなかった。ただ眠たさの極限になって眠りに落ちるまで、いつも考え事をしていた。なんで自分は米国に来たのだろう、と。

同部屋には、もう2人の同居人がいた。一人はニューヨークハーレム出身のアンディ。口数は少なく、いつも頭にスカーフのかぶり物をしていた。

もう一人は・・・名前も出身地も忘れてしまった。ただ、胃腸が悪いらしく、いったん便器に座ると最低10分は立ち上がらなかったヤツがいた。

そう、一部屋6人のドミトリーで寝起きしていた。シャワーと便所は隣の部屋と共同で、つまり、12人が一つのバスルームを共有していた。他の同部屋人は、マイクのラジカセの大音量には気にも留めていなかった。

彼らとのコミュニケーションにも、苦労した。言葉は通じなかったのだ。これが英語か!という感覚だった。「黒人」と「南部人」特有の発音とリズムに苦しんだ。

それ以上に困ったのは、プライバシーは全くなかったことだ。バージニアに来るまで日本で4年間、下宿とは云いつつ個室で暮らしていた。急に、身ぐるみはがれた、ほとんどハダカ状態の暮らしを一緒にするのは耐えられなかった。それが1年間続くのかと思うと、気が滅入った。

4年間働いた貯金の関係で私が選んだのは、授業料の安い南部の大学であった。寮に入って分かったのだが、カタログにあった通り、本当に「黒人」と呼ばれる学校だった。彼らがどんな階層から出てきたのか、簡単に想像することができた。

95%は有色の学生だった。ほとんどの学生が奨学金を受けていたようだ。逆差別もあり、数少ない「白人」たちは全員、寮から追い出される始末。アジア系のルーと私は「白く」ないから寮で暮らすことができた。

寮の中に秩序と呼ばれるものはなかった。深夜の叫び声、ガンガンと鳴り響く音楽で踊り狂い、いつもどこかの部屋でパーティーが開かれている。週末は必ずどんちゃん騒ぎ。図書館が私の避難場所だった。

同室の者の物は盗らない、友人のモノには手は出さない、しかし、友人の友人のモノはなくなってもおかしくない。秩序のない動物園のような状態だった。マリファナをやっているヤツを初めて目の前で見たのも寮の自室だった。そして拳銃を初めて目にしたのも。

入寮の初日、愕然とした。15メートルの真四角の部屋には薄汚いロッカーとベッドの上に汚れたマットレスが一つあるだけだった。枕も毛布も何にもない。なんの予備知識もなく大学にたどり着いた結果だった。

入寮が早かったのか、私の部屋には他の学生はまだ誰もいなかった。初日、がらんとした部屋のベッドの上にごろりなった。部屋の壁は、ブロックにペンキを塗っただけの冷たいコンクリートの遮蔽物である。

数日して、ルーが入ってきた。彼は私の状態を見て、余分に持っていた毛布を分けてくれた。言葉が不自由で、生活習慣になれない私を彼は助けてくれた。とりあえず、一番初めの話し相手がルーだったのは幸運だった。

1学期(4カ月)が終わって、ルーと私はその寮を出た。しかし、その次の住まいも、決して楽だった訳ではない。

まあ、その苦しかった9カ月の生活を終え、米国をグレイハウンドの大陸横断バスで1周旅行を実行に移した。約1ヶ月間、「黒人」の米国ではなく、違った姿のアメリカを見ることができた。

とくにその広さには度肝を抜かれた。日が沈む前、大型バスはテキサスの農場を走っていた。延々と続く農場。その農場を囲む一直線の柵。ぼんやりと窓の外を眺めているうちに、夜のとばりがおりていた。

うとうとしていた。知らぬ間に寝入っていた。太陽が昇ってきた。周りの状況が朝日で照らされた。時間の感覚を失った。寝入る前の風景と目を覚ました時の風景が全く同じだった。広いなあ。

もっとも、全く違った「白い」アメリカを感じたのは、それから約5年後のボストンでの生活の中であった。

バージニアでの9カ月とおまけの1カ月間。言葉、生活、自然環境、文化の異なった生活は重たかった。

日本に帰国して、何をどうしていいのか分からなかった。全くの虚脱状況に陥った。街を歩いている人びとを見ても、彼ら/彼女の姿をはっきりと網膜に像として結ぶことができなかった。

毎日毎日、無為の日々が過ぎていった。夢だった米国暮らしを実現した後、帰って来てどうしてのかわからなかった。ただ米国に憧れ、その夢を果たした後で、目的を失ったのだ。孤独と寂寥感に押しつぶされかけた。

それまでは、憧れと夢だけを支えに生きていた。その23歳と3カ月目。一体全体、何が夢なのか、希望なのか、目的なのか、そのことを改めて考えさせる現実を突きつけられた。

さあ、お前は、今後どう生きていくのか、と。

阪急電車の走る音が聞こえる、王子公園駅(旧西灘駅)を真下に見おろすマンションの最上階の小さなワンルームマンションに転がり込んでいた。

太陽が昇るのを感じるだけで気分が沈み、スーパーに買い物に行くだけでココロが重たくなった。好きな本のページを開く気にもならなかった。

実体、何をしたいのか、と。どのように自分の身を処していいのか、その指針や道筋が全くなかった。考えることもできなかった。毎日、食べて、寝て、息をしているだけの状況だった。

苦しい23歳の時だった。今、考えると、それは自分の転換点の一つでもあった。偶然、1冊の本を読んで、突然、「ストン」と落ちた。理由は分からなかった。変な感覚を得た。

その感覚を得た当日だったか、あるいは、数日経ってだったろうか。よく覚えていない。だが、急に胸が軽くなった。すると、急に涙があふれ出てきた。意味は問わなかった。ただただ、涙が流れ出た。溢れる涙を受け入れた。

そして、何を思ったのか、久しぶりに自分の意志で決めた。ようし、この姿を自分できっちりと記録するのだ。そう思った。急いで洗面台に走って行った。思いきっきり泣いてやるぞ、と。

自分の泣き顔を見てやろう。そう思って鏡に対峙した。とどめなく涙が出ていた。ぐしゃぐしゃの表情だった。情けない姿だった。嗚咽した。

う、う、う、う〜っと声がで続けた。約10分間泣き続けた。スキッリとした。

23歳の初夏のことだった。

鏡に向かって泣いた後、なんか落ち着き始めた。それから、ようやく数日間、自分の体内に血が巡り始めているのを感じた。そんなときだった、魂を揺り動かしたのは、ビートニクスとの出会いだった。J・ケルアックとの出会いであった。

ケルアックの書いた「オン・ザ・ロード」の内容よりも、彼の生き方そのものに影響受けた。執着するよりも、エネルギーのある限り突っ走れ、と。その時から、走り始めた。


1997年、ギンズバーグが逝った。数月後、後を追うようにバロウズも逝った。それはちょっとショックであった。あの23歳の号泣を思い出しからであった。何を思ったのか、その時連載していた文章に彼らのことを書きたくなった。

そして、先週、ビデオを見終わったあと、その時書いた「世代を越えて」
− 2人のビートニクスの死 − という一文を読み返してみた。
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「世代を越えて」
―二人のビートニクスの死―

2日(1997年8月)、アメリカの小説家ウィリアム・バロウズがこの世を去った。彼は詩人のアレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックらと共に、新世代が旧世代に反旗を掲げた1950年代のビート運動を先導した。

この連載のタイトル「オン・ザ・ロード」は、実はケルアックの小説名からいただいたものだ。国境を越えて世界中に広がったビートニクスたちの生き方は、閉塞感に押しつぶされそうな現代の若者に、世代を越えたメッセージを残しているように思える。

個人の感受性や体験を大切にする生き方。一人ひとりのエネルギーは大きくなかったが、時代の動きとともに反戦・平和運動などにも結びついた。

ギンズバーグ死去の知らせがとどいたのは4月だった。その日、私は久々に彼の詩集「吠える」を手に取った。表紙をめくると、彼の直筆サインがぎこちなく躍っていた。

91年春、ボストンの小さな書店のサイン会に現れた彼に「小粋なスーツ姿のあなたの姿なんて、想像もしていなかった」と言ってしまった。

彼はただにやりと笑っただけだったが、「人間は外観じゃないんだよ」と言いたげな表情が印象的だった。

いつの時代も、旧(ふる)い世代の人たちは、新しい世代に、社会の進むべき方向性を示せないままでいる。

命の大切さを謳いながら戦争は続き、平等を説きながら差別は根深く進行する。個人の大切さをいいながら「マス」の効率を追求する。

「ビート世代」の若者は、そのような偽善性に抗い、自分の感性に正直な生き方を追求した。今の日本の若者も、豊かに見える社会を嘘っぽいと受け止め、表面上は繁栄した世界をありのままに受け入れることができないでいる。

いつの時代も若者たちは、時代の性格を正確に、しかも厳しく嗅ぎ取っている。彼らは、親の世代が必死に努力して作り上げた世の中を欺瞞だと感じている。旧世代の者が努力して築き上げた世の中なんて、この程度か、と。

今では物わかりのよくなった前の世代の人たちも、かつては世の中の不条理に反発し、さまざまな形で激しい抗議の声を上げた。若者たちは、前の世代から時代を超えるメッセージを受け継ごうとしている。

それだけに、「あのころのあんたたちのエネルギーはどこへ行ったんだ」と、詰め寄りたい気分なのだ。

純粋に生きようとするエネルギーにあふれた若者の中には、何とかして自分の生き方に突破口を見つけ出そうとする者も出てくる。親の心配をよそに、子供たちはしなやかに生き抜く知恵を身につけている。

そりゃ、大人たちにとって、今まで努力して築き上げたものが否定されるのはいい気分がしない。

心配は無用。親の世代が現在の息の詰まった社会に反発できないその分、「私たちがやってあげましょう」とばかりに、国家や民族、思想という既成の枠から飛び出していく。少なくとも、私はそんな若者たちを何人も知っている。

それに比べて、彼らをおおらかに見守れる大人はどれだけいるのだろうか。本当に心配なのは、余裕にない大人たちではないのか。

かつて若者の心を揺り動かしたビートニクスの死は、私にそんなことを思い起こさせた。

(『朝日新聞』大阪本社版夕刊 1997年8月14日)
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また、辻仁成氏は「僕のビート・ジェネレーション」
(『ビート読本』思潮社、1992年)の中で書いている。
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「1977年の夏をなつかしく思い、社会の予備校になりさがった大学に
つばにはきかけ、いちぬけた。そう思いこんだ日に、作られたスタイルを
こわす為バンドを組んだ。自分の事をさらけだして、それに歌に氏、僕は
今も食いつないでいる。システムに流されないように、・・・。

今年、ツアーの途中、新幹線の中で、スーツを着てネクタイをしめた良に
偶然再会した。彼の最初の一声はこうだった。

「お前、まだやってるのか?」
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今、自分が「大人」と呼ばれる世代になって、あの、ビートに出会った時のエネルギーを持ち続けているのだろうか。こうやって自由に生き続け、走り続けて疲れたときなど、ついつい「できない」ことの理由付けを自然と身につけていることに愕然とする。

無為に時間を過ごしてあってはならないと、いいきかせつつ。現実から目をそらそうとしている。23歳の時に涙を流して、16年間、涙を流していなかった(92年の涙は、流れ落ちる前に、ぎりぎりこらえていた)

今、苦しみを目の前にして、その原因から逃げようとしている自分に気づいている。今、再び鏡に向かうときなのだろうか。

さて、どうするのか、自分で自分の行動が楽しみである。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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