フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2002/03/05 第21号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第21号■

「まだまだ試行錯誤中」

明日、1カ月ぶりに取材に出かける。さて、どういう写真ができあがって くるのか、行く前から、とても不安である。特に今回は、いままでとは全 く違った取材方法と取材対象だからだ。

この仕事を始めて10年目、またまた新しい挑戦の始まりである。

これまでの取材は全て、自費で行っていた。取材期間もほとんど自分で決 めていた。できあがった作品に納得すれば、雑誌社・出版・新聞社に持ち 込む。そういう仕事のやり方を続けてきた。

だが、今回は、自分が「これは!」と思う企画を雑誌に持ち込んで、取材 費の交渉をした。初めてのことである。また、企画は通ったが、取材が始 まる前に発表の日が設定されているという「窮屈」な取材をする事になった。

まあ、取材費をもらって仕事をしたことは何度もあるが、自分のやりたい 取材対象での企画は、初めてである。まあ、ちょっとはプレッシャーがかかっている。納得がいかなくても引き上げなければならないからだ。

撮影の相手もこれまでとは全く違っている。実は、そこに一番のプレッシ ャーを感じている。それに、人を介して、受け入れ準備をしてもらっているというのも、これまた負担である。

今までみたいに、「まあ、どうにかなるさ」。そんな簡単なことでは済ま されない。どんな写真を撮ることができるのだろうか。ふぅ。ちょっと溜息がでそうだ。

先月のフィリピンの取材は、まあ、自分の基準としてはギリギリ合格点を あげてもいいだろう。他の誰でもない、自分でしか撮ることのできないイ メージを撮ることができたと思うからだ。

現場に立っただけの写真にならずに済んだ、と我ながら思う。

スモーキーバレー(ごみの谷)に立った「証拠写真」にならずに、どうい うオリジナリティーを加味するか。正直言って、最初の1週間は、苦しかった。誰でも撮ることのできる写真ばかりだったからである。

証拠写真であり、記録写真であり、時代の証言者としての写真であり、なおかつ人間性が出て、芸術性のある写真に近づきたかった。

イメージ作りのお手本、ジェームズ・ナックウエイの言葉をいつも思い出 す。

「人びとに訴えかける力のある写真でなければならない。そのためにも、 人間のドラマを撮る。人びとの個性に近づく。ただ、冒険心とか現場に立ったことの証明のために撮るのでは意味がない。・・・・・。現場ではいつも目的を忘れずに冷静であるように心がけている」

それ以上に、今回のフィリピンでは、「世界史のしっぽ」をつかんだ手応えを感じた。アジアとラテン米国のつながりを体感した。太平洋なんて、飛び越えてしまった。

今後の、自分の取材を「深く」するヒントが目の前に姿を表したようだった。これは気長につき合わなければならない。自分の正義と向こう側の正義を闘わせる。それも必要だし(これは今後の課題である)

フリーランスフォトジャーナリストの写真は、スタッフフォトジャーナリ ストの写真と同じであっては、フリーである意味がない。もちろんすぐには答えは出ない。息の長い、粘りの仕事だ(まあ、仕事は全てそうであるが)

どうすれば写真がメディア、表現媒体としての力を100%以上発揮できるか、考えている。自分の写真を省みる。人の写真を研究する。

最後には、自分の視点を定める。何のために写真を撮っているのか、と。 しかし、この辺りが難しいのである。「何のために写真を撮っているのか」 という写真論、人生論の「論」だけの呪縛に陥る怖れがあるからである。

写真を撮らずに、「論」だけにこり固まってしまう。そうすると、被写体 の姿が見えなくなってくるのだ。被写体あってのフォトジャーナリストと いうことをついつい忘れがちになるからである。

写真「家」としてはいいだろうが、報道写真家としては、堕落の始まりである。いい写真を撮らずに論だけが先行することになってしまう。

フィルムひとコマひとコマ(デジタルならどう表現したらいいのだろうか)、 の積み重ねをないがしろにしてしまう。すなわち、自分の頭の中の「論」 に現実の方を合わせようとしてしまうのだ。

つまり、目の前の事実が見えなくなってしまうのだ。

ごみ捨て場で生活する人の援助に関わるIさんに出会った。フィリピンで ケースワーカーとして7年目である。

彼女は言う。「希望がない。仕事が無く貧しい。そんなことを真剣に考えたら生きていけない。それくらい現実は厳しい。それでも、彼らの『笑える』強さを感じてしまう。楽しくやっていないと生きていけない」

ついつい深刻になる「深刻病」は先進国の贅沢病かも知れない。

そう思うと、フォトジャーナリストとして、それほど深刻にならなくても いいのかもしれない。自分の感性と視点を頼りに、シャッターを切ろう。 まだまだ試行錯誤は続くのだ。
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フィリピンの写真は、以下の URL にアップしました。
http://www.uzo.net/asia/philip/philtop.htm
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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感想は宇田有三(info@uzo.net)まで
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