フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2002/01/20 第20号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第20号■

" Dear My Friend "

Dear my friend,
Before I leave for the Philippines, I want to say something to you.
フィリピンに行く前、残った仕事はあと1つになり、ちょっと一息ついています。でもしんどさは相変わらず変わりません。最後の最後まで、気がかりな仕事を残しております。今夜と明日が山場です。トホホです。

この数ヶ月間、グアテマラ、ニカラグア、ビルマ、フィリピン、韓国の取材資料をずっと読んでいました。虐殺や暴力の被害の証言、貧困の実態の報告集。読んでいて胸がいっぱいになり、いつも悲しく、苦しくなっています。

普段は数秒で寝入ることができるのに、そんな日の夜は、証言集や記録で綴られていた状況を思いうかべ、数分間たっても寝入ることが出来ないことがありました。これは自分にとって異常です。

涙をこらえることばかりです。泣いたら、それで終わりと思い、泣かないように、「ぐっ」と我慢の毎日でした。泣いても何の解決にもなりませんし。世界規模で起こっている現実を想像すると、目の前が真っ暗になります。

涙を流すのは自己憐憫に過ぎません(あ、言い過ぎかな)

おそらくアフリカや中東、東ヨーロッパでも状況は、同じようなものだと思います。そう思うとさらに心の中が重たくなります。人間は進歩しないのかな、って。もちろん、日本国内とて例外ではありません。

取材の現場に行けば勇気づけられる。その現場で生活する人の経験に教えられる。全くそうです。でも、過去10年間の現場での経験から、これらの証言を読むと、今まで以上に気持ちが暗くなります。

どうしようもないのか、と。どうあがいても現実は変わらないのか、と。変えようと思う自分の考え自体が甘いのか、と。現場を知れば知るほど暗澹たる気持ちになってきます。私みたいなええかっこしいは、もう出る幕はもうないのかな。

でも、自分に出来る精一杯のことはやっているつもりでも、「ま、いいか」と、どこかで個人的な幸せを求めようとしている自分自身がいて嫌になります。

パーソナルな関係を完全に拒絶し、365日・24時間緊張ある生活を送ってきました。失うモノを持たない生活を続けてきました。物質的にも愛情関係においても。

やはり Maverick は Maverick で生きるべきなのか。でも、動き出したことは、もう後戻りはしません。そういう性格ですから。

そうする事によって、こんな生き方は周りの人と一緒にやっていけないのかな、と繰り返し考えてしまいます。自分の求める役割と個人的な幸せと、どんな風にバランスをとっていくのか。

明日死んでもいいように、余分なお金も持ってきませんでした(借金はありますが、自分が死んだときの保険金で払おうと思っています) そうやって10年間暮らしてきました。

ずいぶんと身勝手な人間関係の作り方です。でも変わる可能性を見出すことが出来るかも。そう思うと、ワクワクするのが本心ですが。なかなか難しいものです。

でも、自分が信じてやってきたことは、このままでいいのか、現実を知れば知るほど、苦しくなってきます。人の役に立つためというより、自分の満足感を得るためにやって来たというほうが正直かも知れません。よくわかりません。

分からないという思考停止で、考えることから逃避しているのではありません。今は、考えても仕方がないことだと思います。分からなければ、壁にぶち当たるまで行動する。それしかありません。

自分自身を救世主(messiah)と思っているわけではありません。自分がやっていることは果たしていい道だろうか、と。ジャーナリストと使命に不安を感じています。果たしてこのままでいいのだろうか、と。

昨夜は、フィリピンでNGO活動を続けてきた60歳くらいの日本の人の手記を読んでいました。最後の方に、「でもいま私は、それをどうすることもできないむなしさと悲しみとにさいなまれています。本当の解決は、いったいどこにあるのでしょうか」。

これを読んだ後、私はどうしたら、私は分からなくなってきました。自分のもつ能力で動き続けることができるのか、やっぱり不安になってきました。

取材をするのが怖くなってきています。いい写真を撮る、いいルポルタージュを書く。そういう問題ではありません。私は必要とされているのだろうか。そういう不安です。宙ぶらりんの不安です。

自己満足だけでやっているような行動なら、しない方がいいのか、と。自分にはフォトジャーナリストとして能力があるのかと。他人の評価ではなく、自分の自分自身への評価として。

他の人は、私が自信満々で、取材や報告もきちっとし、いつも成果を残し、ある程度の仕事をしていると評価してくれます。でも、心の中はそれこそ turbulance です。

いつも宙ぶらりんです。本や写真集を出したりするのが自分の仕事の目標ではありません。満足のいく仕事をしているとは思いません。

それでも一方で、ジャーナリストとしては、見てきたこと、感じたことをもっときちっと報告する義務がありますし。被写体となった人たちへの責任も放棄できません。

でも、こうやって、愚痴を言える人がいて嬉しく思います(ごめんなさいね、一方的に書いてしまい)。また、それでまた迷惑をかけているのではないかと心配しています。

もちろん5年後、10年後を考えて行動しているつもりですが、やはり私はいつも「今」を精一杯生きることにかけてしまいます。それだからこそ unnecessary な friction を自分の中にも他の人との関係においても起こしてしまいます。

個人的な人間関係において。いつも迷惑をかけたくないと思って、深いつきあいを拒否してきました。でも、それを分かってくれるのではないかと書いてしまいます。

しかし、分かって欲しいと思うのと同じくらい強く、自分も身近な人を理解しよう、愛そうとしているのか。その努力をしているのか。そのことはいつも頭の隅にあります。

自分に出来る努力をしながら、精一杯前に進む。それは分かっています。時には弱くなった自分を許してやってもいいのですが、まだ許す自分を認める勇気がありません。

だからこうやって書いているのかも知れません。もしかしたら、次のステップへの一歩かも知れません。でも、正直言って、嬉しくて、悔しくて、腹が立って、慰めて、不安に思っています。こういう愚痴を言えるもう一人の自分がいて、今はちょぴり幸せです。

でも、こういう自分の姿はちょっとだけ情けないですね。で、どんなに分かり合えた人でも、愛している人でも、いつの日かと別れなければならないと思うと、想像するだけで悲しいです(最後の最後には、「死」という運命が待ちかまえていますから)

本当に見返りを求めることなく人を愛するってのは出来るのでしょうか。そこを考えると、最後の最後で迷ってしまいます。自分のことはきちんと出来るですが、思い切った人間関係つくるのは本当にヘタです。

どこまで自分に素直になれるか、仕事と生き方と人間関係と、頭の中と心の中がグルグル回っています。

人のために生きていきたいといいながら、自分の幸せのことを考えてしまう。ダメなのでしょうか。苦しんでいる人に何が出来るのでしょうか。

私が愛情を拒否してしまうのには、あまりにも多くの悲しみや苦しみを見てきたからだと思います。だからこそ、自分はああいう風に苦しみたくないと。

博愛、思いやり、想像力など抽象的な言葉はいらない。何も言わず、ぎゅっと抱きしめてくれる人がいればいい。もちろん理解を前提にして。

こうやって弱い自分との対話を、こうやって少しずつやっていくにつれ、ますますその存在の意味を考えてしまいそうで怖くなってくるのです。もしかしたらいつの日にか失ってしまうのではと。

人間は、「苦痛や悲しみや恐怖の体験を通して」成長するしかないのは分かっています。それでも、それを受け入れる覚悟をどうやって養っていけばいいのだろうか。

そういう怖れのためにもうあと一歩進む勇気が必要だと分かっています。自分が、自分以外に頼る人を必要としている。そういうことを書くこと自体、自分で驚いています。

こんな姿を見せられた側は、精神的な負担にならなければいいのですが。

いつも質問してしまいますね。どう思っているのか、と。それほど今の状態が不安定なのです。人間は矛盾や悩みを抱えて生きていかなければなりません。

それは十分理解しています。私自身が今の状態に揺れ動いているのは、その悩みや矛盾の内容ではなく、そういうことを引き受けて生きていく覚悟が出来ているかどうか揺れ動いているからです。

分かりますか? 無茶な行動はしますけど、自分の幸せのために行動をする勇気がないのかも知れません。

そう思っていても、やはり「もしかしたら何かあるのでは」、と。半ば破滅的に動きだしてしまう自分の楽天性を恨めしく思います。Maverickからアナキストへの一歩でしょうか。

誰も動かないと嘆くよりも、まず自分が動いてやってみる。それで失敗したらそれでいい。中途半端はダメだと言いきかせるときがまたやって来た。とことんの理想主義者なのかな。

人のココロを動かす写真を撮っているという自信はないです。揺れ動くこんな自分だからまだ撮れないのだろう。しかし、歴史の一部として、証言者の端くれとはなれるだろう。

今はそれだけを信じて旅立つのみ。私を必要としてくれる人、私を手放さなそうとする人は、今いづこ。本当に存在するのだろうか。

私は衣食住何不自由ない(時々、不自由はしているが・・・)生活しているが、もっとつらい人がいるのだ。あれもこれも望むその欲望が実はココロの空虚さを生み出す。

頑張って生きているということよりも、生かされている。そのことを強く感じたくて現場に向かう。金も後ろ盾もない自分にとって今できることは、自分の意志で挑戦するその気持ちを持ち続けることである−世界をかえるそんな大それたことではない。

自分が自分の人生の主人公の主役から降りる。それだけの勇気があればできること。

預金通帳の残高は今回の取材後、トホホホホ状態になるのは確実です。それでもいいのです。自分に嘘をついて生きていくよりは。最後のよりどころは、自分が自分であるための誇りです。夢追い人の最期の砦です。

私はこんな人間です。これで、自己紹介をおわります。う〜久しぶりの独り言だったなあ。

さ、こんなメッセージを送る相手は、実は自分自身しかない。それが現実の生活である。こうやって自分宛に自分の葛藤を書くことで感情の処理をするようになって、はや16年が経過した。

さ、明日からはまた、それでも毎日を生きていかなあかん日常やな。搭乗手続きでごたつくかもしれんが、ま、行くしかないか。

ではまた、続きは帰国してから。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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