フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/12/28 第19号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第19号■

「現実から学んできた」

冷気が渦巻く暗室でひとり、立ちっぱなしの作業が1半年くらい続いた。現像したフィルムから印画紙への引き伸ばしは単調だった。しかし、自分を見つめる孤独な作業から、ゆっくりと自分自身が見えてきた。

写真を撮り続けることは ─ 頭だけで考えるのではなく、実際に体を動かし、被写体に接すること ─ そんな答えがゆっくりと現れてきた。

映像として、実際のイメージが印画紙の上に浮かび上がってきた。その映像は、自分の子供時代を思い起こさせる画像であった。

子供時代に感じたことを、なんとか社会に訴えたいんだ。その思いがイメージ作りの根源にあったようだ。幼いときから成長するにつれ抑え込まれていた怒り、悲しみ、寂しさの存在に改めて気づいた。

ところがこの時の孤独な作業は、ただ単に過去の記憶を思い出しただけではなかった。その時、客観的に自分自身の過去を見つめる作業へと転換していった。

さらに、現像液に浮かびあった画像を見ながら自分の過去を振り返り、「いったいこれはどういうことだ」と、さらに考え込む自分を見つめるもう一人の自分がいることにも気づいた。

写真を撮るとき、いつも客観的になる癖は、このときの獲得したようだ。常に第三者的な自分が、その時々の撮影状況を支配することを身につけ始めていたのだ。自分の冷静さに、のどの奥が乾いていくようだった。

つらい思い出は、誰にでもあるのだ。自分の体験だけを特別視してはいけない。「自分の過去を見つめ直す」という暗室での経験は、自分の中だけに閉じこめられなかった。

人は自分の経験の範囲でしか物事を判断できない。その判断を基準として人間関係や社会を判断しがちだ。いくら想像力を働かせるといっても、自ずと限界がある。その超えようのない現実を受け入れなければならない。

写真の撮影と発表を、ごくごく個人的な作品作りだと、自分の主観を訴えるだけで、自ずと限界がある。そこで一度、自分の興味のある事柄・被写体選びを再点検し、社会に問い直し、反応を得る方法(反応がないのも、一つの反応である、とする)をとったらどうだろうか。

つまり、写真という具体的な目に見えるイメージ映像を通して、現実を見る、自分を知る、自分と社会の関係性をみる方法を確立していくのだ。そうやって、社会に参加していくのだ。

個人的な感情を一般化したり共感を得る映像表現は可能ではなかろうか。そう感じ始めた。

人間社会は多様な社会である。頭の中ではそのように理解できる。傲慢な人間もいれば、謙虚な人間もいる。圧制を敷く国家や共同体もあれば、緩やかな社会もある。

まずは、頭で理解するよりも、この矛盾だらけの社会に身を晒し、そこで何を考え、決断し、想像し、行動していくかである。自分自身へのごまかしは、そこでは許されない。

好都合なことに、写真を撮るには、まず自らが動かねばならない。動けば何らかの結果がついてくる。

高校、大学、社会人を経ても、ついつい頭で考えてしまい、現実を見ずに、抽象的に考える癖がついてきた。その方がかっこいいと、そういう生活を知らず知らずのうちにしてきた。人間を、社会を一般化していく考えに染まっていっていたのだ。

しかし、写真は実際に生きている人間(被写体)を目の前にして、具体的に行動しなければならない。そこに自分の思考方法だけの世界に閉じこもっているわけにはいかない。

写真を写すのに、自分の主義・主張だけを突っ張るわけにはいかないのだ。否が応でも現実に、生身の人間にぶつからなければならない。

テーマ設定や被写体(モチーフ)選びなど、自分の納得のいく写真撮影は実に手間がかかることばかりである。

時に無駄だと分かっていても現場に足を運び、人と会い、失敗し失望する。その繰り返しである。

それでも写真を続けているのは、簡単に答が見つからない作業だからだ。それが徐々に分かってきた。効率を求める態度では撮影や取材を続けることはできない。

さらにその後、たとえいい写真が撮れなかったとしても、それはそれでいいという覚悟もでき始めていたようだ。取材や撮影をきっかけに知り合い、出会った社会や人はかけがえのない財産だ。

自らをさらけ出してくれた被写体に対する責任感をいつも痛感するようになった。

初めての撮影取材のため中米エルサルバドルに入ったのは1992年。東西冷戦の熱い代理戦争になった国である。米国の監督オリバー・ストーンの題材「サルバドル」の舞台になったところだ。

12年に及ぶ内戦が停戦となったものの、ゲリラ軍と政府軍がまだ、散発的にぶつかり合っていた。私はどこかで、映画で見たような激しい現場を期待していた。

ある時、エルサルバドルの首都サンサルバドルから北へ向かった。隣国ホンジュラスが近いラ・パルマという国境の町であった。政府側とゲリラ側が初めて和平交渉を行った町だ。首都からバスを乗り継いで、約3時間半たらず。

戦闘の跡、戦争の跡、内戦の跡を探し回って約半時間ほど歩き回った。その短時間で、町をほぼ一周した。あまりにも静かな町だった。これは写真にならないな。

私は落胆した。思っていた風景、期待していたイメージがなかったからである。

平和に向けての交渉が行われたの町だから、きっと内戦を象徴するような特徴が何かあるのだろうと思いこんでいた。しかし、町の中央には教会と小さな市場があるだけ。

暑さのせいで人々は家の中に引きこもってしまい、通りを歩く人の姿はない。仕方なくこの町、いやこの国の唯一の自慢、民芸品作りの工房をのぞき込み写真を撮っていく。

それでも何か「いいことないかな」と狭い路地を歩き続けてみる。馬の世話をしている親子連れ。時々、学校帰りの子供たちが目に入った。あちこち歩き回り、とうとう同じ所をぐるぐると回りはじめた。

汗びっしょりになった。喉が乾いてきた。公園の角に建つ駄菓子屋に入って休憩する。冷たいコーラを一気に飲み干す。

「ほっ」と一息ついたところで、こっちをじっと見ているこの駄菓子屋のおばちゃんと話をしてみる。

「暑いね」
「本当、暑いね」
「どっからきたの?」
「アメリカから来た日本人だよ」
「何をしているんだい?」
「写真撮影のぶらりと旅行だよ」
「いいね、ところで、何かほかに欲しいものはないかい?」
「いいよ、それより、この町で写真を撮りたいんだが、どこかいい所はな い?」
「それじゃあ、この平和な町の姿を撮って帰っておくれ。戦いの無いこの 町の姿を」。


「・・・・・」。絶句した。私は次の言葉が出なかった。

「私たちが誇れるのはそれだけなんだよ。今、私たちが子供達に誇れるのはこの平和だけ。何も無いけど、今までこれが一番欲しかったんだよ。それだけでじゅうぶんだよ」

おばちゃんは当たり前の顔をして、さりげなく言った。その言葉を聞いて恥ずかしかった。心の底から恥ずかしかった。平和の尊さが違うのだ。自分は薄っぺらな気持ちでここまで来ていた。

どかどかと土足で人の心の中に押し入っていたようだ。自分は取材撮影をしているんだから何をやっても許されるんだという自分の傲慢さを見せつけられたようだ。恥ずかしい。カメラをカバンの中にしまった。

その駄菓子屋を出て、再び町の中を歩き始める。今度はカメラを構えること無く、自分の目で平和なラ・パルマの町を記録していくのだ。少々感傷的になっていた。

ありふれたとはいえ、この町の姿をネガに形を残さないとは。プロへの道を歩みだした者にとって失格かもしれない。しかし、カメラを持たずに歩き始めると、先ほどの見慣れた路地が違う形となって見えてきた。

嘘みたいな話だ。でも本当にそう感じる。その感覚を忘れないでおこう。

疲れが全身を襲ってきた。歩き回るのをやめ教会の前の公園で昼寝をすることにした。ゴツゴツしたカメラバッグを枕に、木漏れ日の中、ベンチの上にゴロンと横になった。

さわやかな風を頬に受け、いつの間にかぐっすりと寝入ってしまった。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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