フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/09/09 第9号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第9号■

「結果よりも、過程を大切にしたい」

いままで出かけた海外取材には、2枚の写真を必ずカメラバッグに入れて きた。そのうちの1枚は、左端に学級旗を持って座っている私自身が写り 込んだ集合写真である。

青い空をバックにした、ちょっと晴れやかなクラス写真だ。12年ほど前 になるが、一時期教師という職に就いていたことがあった。クラス担任と して、44人の生徒を受け持っていた。

その学年にあと1人か2人の転入生があれば、もう一クラス増えるくらい、 めいいっぱい、ギリギリの人数で学年が成り立っていた。机を並べると、 自由に歩き回ることのできないくらいギュウギュウ詰めの教室だった。

44人もいれば、いろんな性格の生徒がいるのである。ほんとうにそれは、 小さな社会の縮図でもあった。彼ら、彼女からいろんな姿を見せてもらっ た。人の能力や性格も多種多様であった。

怒れば−−−すねる・落ち込む・反抗する。褒めれば−−−喜ぶ・つけあ がる、素直に受け取らない。ありのままの姿を。悲しいことに、クラス内に はちょっとしたイジメもあった。一時期、そのことで振り回されたことも ある。

しかし、いやな出来事はあまり覚えていない。それよりも感動的なことの方を覚えている。

英語が好きで、必死で英単語を覚えようとしていたA(仮名)という生徒 がいた。人は得手不得手があるものである。Aは体を動かすことは好きだが、どうも暗記、というかいわゆる教科勉強は得意ではなかった。

しかし、明るく、性格の良さははダントツだった。教室の掃除や割り当て られた仕事など、人が嫌がることも率先してする生徒であった。また、 「みんなしようよ〜」と行事などの参加へも、他の生徒にも積極的に声をかける性格だった。

先生が授業がしやすいように黒板消しを常にきれいにしていたり、予備のチョークを持っていたりと、気配りも申し分がなかった。

自分の中学生時代をふりかえってえってみると、だいたいは学級委員長や副委員長は、成績がいい者がなるのは当然のように思われていた。 同じようなことは私が教師になっても変わっていなかった。

1学期の委員選びが終わった。Bは学級代表の委員に選ばれていた。小学校の頃から成績はよく、学級の代表になるのは誰もが当然だと思っていた。

庭訪問時、Bの家を訪れたときBは言った。「学校に行くのがイヤになるねん。お腹が痛くなるねん。なんで私がせなあかんの・・・」。しかし、 母親は、我が子が学級の代表として活動するのが嬉しいらしく、ちょっと、誇らしげであった。「どうぞよろしく・・・」という言葉がズンと来 た。

しかしである。なにがどう間違ったが、私の担任のクラスでは、1学期はなるほど、学級委員はBのように成績が良い者が選ばれた。が、2学期、 3学期になると、そうならなかったのだ。

まるで担任のいい加減な性格をそのまま受け継いだような感じだった。それは、他のクラスでは見られなかった事だった。

副委員長に選ばれたAは、学校集会・学年集会の整列の時も、大声を出して、他の生徒の模範となっていた。進んで学級委員の役割を果たした。しかし、どこか成績があまり良くないのを引け目に感じていた。

まあ、それでも副委員長の仕事をやっていけたのは、担任の私が、成績に うるさくなく、ちゃらんぽらんだったのが良かったのかもしれない。 頑張りさんはちゃんと評価するのだ。そう態度で示していた。

そんなAは毎日、授業に関係なく、ノートにびっしりと英単語を書いてきた。ほかの教科はさておき、必死に私の担当教科である英語だけでも、とがんばっていた。

しかしである。人間、得手不得手はあるのである。そのとき思った。英語 を試験科目からはずしてほしいなあ、と。

英語を学ぶのは、試験で高得点を取ることではなく、いかに他の人とコミ ュニケーションをするかということであるはずなのに。万人が英語学者や 英文学者を目指す必要はないはず、と。

また、Aは必死で努力していた。その努力が報われない現実っていったい なんなのか、と思った。どうやっても今の社会は、点数や数字で人を序列 化しなければ済まないのか。その縮図が学校にあるように思えた。

成績には決して現れなることのないAの頑張りを見ていると、結果よりもその過程がいかに大切か、何事にも精一杯取り組む大切さを目の当たりに教えてくれた。

そんなAの取り組みをずっとみていた。それだけに、毎朝登校するとすぐに職員室に立ち寄り、私に前夜練習した単語ノートを渡すその姿は、なんともなく力強く、そしてやりきれなかった。

お世辞にもうまいとはいえない文字がノートの見開き一杯に何枚もつづられているのだ。その文字の一つ一つがBの個人史になるのだろうか。間違 って書いた文字を修正しながら、そう思ったりもした。

たいそうな歴史書はそんな小さな個々人の生き方を記録してはいない。

しかし、そんな努力は成績にはつながらなかった。悲しく厳しい現実である。懸命やってもどうにもならないことがある。しかし、好きなことに力 一杯エネルギーを放出するその姿は何とも言えず、感動的であった。

本人の意識は別にして、Aの姿は、「私は成績のために勉強しているのではありません」って言っているように思えた。何のために、なぜ人は努力するのかのか。その事を冷静に考えさせてくれる存在だった。

人生にゴールなんてないはずだ。いい成績を取り、「いい学校」に進学し、 「いい企業」に就職したとしても、一体どうなるのか。有り余った物質的な豊かさと繁栄だけを追い求めるはかなさなんて。それよりももっと大切なことがあるだろう。

自分のやりたいと思うこと、そう信じることができることに向かって精一 杯の力を出し切る。そういう当たり前とも思える生き方・生活をしている生徒たちはおおぜいいた。

結果よりも、過程に満足したい。これだけは手を抜かずにやり通したい。 そういうことがあればいい。それは、友人関係でも、家庭を作ることでも、 パートナーを大切にすることでも、仕事をすることでも、ペットの世話で もなんでもいいのだ。

そういうものが何か一つあれば、道に迷うことはそれほどないのだ。自分のことをどこまで純粋に真剣に見つめることができるのか。自分に嘘をつ くことをできるだけ避けた方がいい。どこかで無理が出てくる。

受け持っていた授業内容をあんまり覚えていない。教師になって2年目ともなると、学校における1年間の流れがだいたい分かるようになっていた。 と、それをいいことに、授業をつぶして視聴覚教室でビデオ映画を見せた りした。

もちろん授業の一貫だから、「ここは!」という場面では、映画の中のセ リフをテキストに起こして見せるようにしていた。「ロボコップ」や「プラトゥーン」などを見ていたっけ。

2回続けて授業をつぶし、「実践恋愛講座」なんという話もしたこともあった。塾に行く余裕がなく、学校の授業だけが頼りだという生徒にとって はかなり迷惑な教師だった。今思えば反省しきりである。

しかし、中学2年生の多感な生徒は、目をギラギラさせながら、必死に話に耳を傾けてていた。人間はある程度成長をすると異性・同性に対する興 味は尽きないものなんだ。欲望はある程度あるのが自然なんだ。
不埒な私は今もそう思う。

それでも、「成績なんてどうだっていいだよ」と言いながら、と同時に保護者との懇談会なんかでは、「もうちょっと頑張ったら成績がよくなるからしっかり勉強せなあかんなあ」なんて矛盾したことを言ったりもしてい た。

必死で勉強して成績を上げ、それからどうしたらいいのか。走り続けるその目的は。生きる目的は、一体なんだろうか。

人生に結論なんてありゃしない。実は、その過程が大事なのである。
人間ってのは限界はあるもの。すべてが思い通りにならないのは当たり前。 だからといって自分を大切にしないのもまた悲しいものである。

もう一人忘れられないCという生徒がいる。そのCもやっぱり成績はよくなかった。だが、リーダーシップはあった。(深くは書けないが)家庭状 況のこともあり、あまり他の生徒の前に出ることをおっくうとしていた。

家では勉強できるという状況ではなかった。家事全般はCの肩にかかって いた。しかし、ひょんなことからそのCが学級委員に選ばれてしまったのである。

果たしてCは自信を持ってクラスの前に立って、他の生徒を引っ張ってい けるかな。そんな不安があった。しかし、そのCもBと同じく責任感が強 い生徒だった。

滅多なことでは弱音は吐かなかった。しかも、真面目で頑張り屋のCは決 して孤立してはいなかった。Cの家庭事情を知る友人が3名ほど、必ずCを支えていた。

成績にはなんら関係のない学級の仕事でさえもCを交えた何人かは放課後 も学級の仕事で居残りをしていた。

学校での仕事を終えると、家庭訪問をして帰路に着くこともよくあった。 学校を休んだのに連絡がなかったCの家に立ち寄った時、Cは一人ぼっち であった。

「大丈夫か」という問いに。「はい、大丈夫です」という返事が返ってきた。その返事の裏には−−私は頑張ります。一人でも頑張ります。立ち入らないでください−−そう感じざるを得ない厳しさを感じた。

まわりと比べて、生活環境は恵まれなくとも、胸を張って生きようとするCの誇り高さを感じた。人が前向きに、積極的に生きようとするその姿は年齢には関係ないのだ。

自分の夢は叶わないかもしれない。しかし、どんな状況でも自分に手抜きせず前向きに生きようとするそんな姿は、数字や記録には決して残らないものなんだな。

カメラを握った今、そんな小さな積み重ねの歴史を見ていきたいのかもしれない。

教師時代のことを書くのはずっと気が進まなかった。ところが、今年7月 28日、ビルマ取材へ出る、そのまさに直前にフランスから一通の絵はが きを受け取った。かつての教え子Dからだった。

Dは、私が教師時代に、一番手を煩わされた生徒だった。中学卒業後専門学校に入った。その後、パン屋(ケーキ屋)で働き始めるようになった。 いつかは本場フランスでケーキを作りを学びたい。そんなことを折に触れ、連絡してくれていた。その夢が叶ったようである。

言葉の壁はあるといえども、なんとか頑張っているそうだ。あの頃の教え はみんな今、24歳か25歳になっているだろう。もう、いっぱしの社会人だろう。同じ土俵で人生を磨いていると思うと、私もちょっと偉そうな こと言ってられなくなる。
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 ■以下、お礼とお願いです■
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 また、「送金はしたのだが、まだ雑誌が届いていない」という方がいらっしゃいましたら、御手数ですが、info@uzo.net まであらためてご連絡お願い致します。
 取材に出る直前でバタバタしておりました。  ****************************************************************
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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感想は宇田有三(info@uzo.net)まで
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