フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/07/06 第8号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第8号■

「現場の撮影で考え、学んだこと」

写真の撮影や発表を、自分の主義・主張を訴えるだけの手段として使おう とすると、写真の持っている「イメージ情報」の可能性はすぐに限界に突 き当たる。

作品を一度、自分の手から放して社会に戻し、第三者から反応をもらうのも必要であろう(反応がないのも一つの反応である)

写真を通して、現実を見る、自分を知る、自分と社会との関係性を見直す方法を確立していくことである。独りよがりになってはいけないのである。

「ファーストフード店を出る。夜のセントロ(下町)を徘徊する。街灯の無い大通り。車のヘッドライトに浮かび上がる人々の姿。車道の隅に座り 込んで野菜を売っている母と子を見つけた。

おそらく売れることはないであろう、排ガスにまみれた果物の前でたたず む親子。ゴミの山の中を、素足で店じまいする幼い子。売れ残った商品がいっぱい詰まったカートを押して店じまいの準備を始める露天商の男の子。

燃えさかる太陽が輝く、昼間のマーケットの情景とは一変している。 車が通るたびに、ヘッドライトの向こうには様々な情景がうつしだされる。 『絵』になる情景だ。だが、カメラにはその「美しさ」をとらえることは できない。この目の前の状況をどのようにして伝えようか。

いわゆる先進諸国の人々が見れば、彼らの状況は、単なる貧しい人々の姿 として映るだろう。だが、彼らを目の前にして思うのは、精一杯生きてい る美しさだ。貧富の差が激しいこの国で、そのようにしか生きる道の無い 人々にとって、選択枝の無い彼らにとって、そのように生きていくいく『 美しさ』がある。

ゴミ溜のように汚れた道路の隅で若い男女が抱き合っている。このようにして生き、子どもを作り、老い、生をまっとうしていくのだろう。生活することイコール生きることなのだ。

彼らが少しでもよりよい生活ができるように手助けできるなら・・・。そ れが、一記録者として部外から入った者の願いである」

これは10年前、初めての取材地エルサルバドルで記録した日記の一部で ある。撮影取材の現場に立つと、常に日常生活の現実を目の前に突きつけられる。

そこでは頭の中で考えただけの「思考」や「言葉」の世界は、目の前の出来事に膝を折るしかない。現実の生活には、匂いも、汗も、筋肉疲労もあるのだ。

カメラを持って現場に立つ。立っただけで満足なのか。現場に立ったという証拠的な写真を撮るだけに終始するのか。

現在の「消費市場経済」優先の社会で、一般のメディアは、いかに優れた写真であっても、消費される「モノ」の一つとして扱われる。

ある程度、その流れに巻き込まれながらも、抵抗するしたたかさも必要かもしれない。

フィルムの入ったオートのカメラはシャッターを切れば、よっぽどの失敗 をしない限り、そこそこの写真を撮ることができるだろう。しかし、なんでカメラは写るのだろうか。そんな疑問を持つ人はあまりいない。

ニュートンは、木から林檎が落ちるのを見て万有引力の法則を「発見」した。そんな逸話がある。この話が本当か嘘か分からない。まあ、おそらくでっち上げだろう。

ある時、(書名は忘れたが)一冊の本を読んでいて、この話に触れていた。 ─「ではなぜ、ニュートンは林檎が木から落ちるのを見て万有引力の法則 を発見できたのだろうか」

最初、その質問の意図するところが分からなかった。しかし答えを見て、 「あ、そうか」、と納得した。

この質問の設定は、ニュートンでも、木でも、林檎ではなくてもよかったのだ。要するに、ある現象を目の前にして、何かを考える人とそうでない人。想像力を働かせる人と層でない人がいるのだと教えてくれたのだ。

どのような視点に立って、どんな発想をするか。人の思考力・感性・感覚 ・視点とは、なんなのか、そのことについて考えるヒントを与えてくれた。

その答えはこうあった。 ─「ニュートンは、月や星、太陽を見て、なぜ落ちてこないのだろう、って考えたからだ」

何かに追いつめられていたニュートンはこういう発想ができたのか。あるいは生活が豊かで時間的なゆとりがあったからこういう感受性が養われたのか。詳しくは分からない。

私たちは(私だけかも知れないが)、目の前に繰り返される現象を、当然 のように思っている。それを疑問に思うか、思わないか。いろんな人がいる。時にそのことを忘れて、ついつい自分の感性や考え方を押しつけがち である。

なぜ、考える必要があるのか。それは、現実を見る・知ることのヒントがそこにあるからだ。

現在、私たちの周りには、生まれたときから、さまざまな「情報」と「情報手段」が入り乱れている。口コミ、新聞、雑誌、テレビ、チラシ、ラジ オ、映画、電話、インターネット、訪問販売などなど。

いったん家を出ると、電車やバスの「吊り」で見たくもない広告を目に入れざるを得ない。バスの車体の横に企業広告やお知らせ。タクシーや車の 横にもお広告。

公共交通機関のドアにも小さなシール告知。ビルの壁面や屋上にも広告。 広告が悪いと言っているのではない。あまりにも節操がないといいたいのだ。

毎日毎日、ビジュアル的な「情報」の強制的すり込みがある。便利さを追求していこう社会の表れなのか。自分が動かなくても、考えなくても、対価を払えば、誰かが動いてくれる、そんなある種、怖い社会を押しつけら れていく。

人間の行動の要因を追求する行動学では、生得的条件(遺伝)と環境(育 ち方・育てられ方)の優勢が常に問題となっているそうだ。生物学的には、 遺伝と環境のどちらもが人の行動を作用し、ヒトは、他の動物に比べて、 環境の影響が強いといわれている。

テレビを見ていると、番組の本編からコマーシャルに切り替わると、急に (音のボリュームの大きさは変わらないが)聞こえ方がはっきりするよう に音に細工が施されている。

ニュース番組を見ていると、時に不必要な効果音や、視覚に訴えるだけの、 刺激的な映像が流されている。「イメージ情報」を発信する側の意図が簡単に分かる場合はいいが、たとえば、写真画像の静止画が流れたときに、 写真の背景色が奇妙に配色されていたりする。

時に、「なぜかな」と不思議に思う。政治家の顔写真でも、いつの、どのような写真を出すのかによって、見る側の印象が変わるものである。

また、TVに限らず、雑誌や広告一般には、どんなデザインや色が、売り上げにより効果的なのか心理的な分析も行われる。この、「消費市場至上 主義」の傾向は「イメージ情報」の押しつけだけではない。

生活が全体的に、そんな方向に動いているようにも感じる。

自宅にいても、今、原稿を書いていても、セールスの電話があった。チャイムが鳴り、押し売りまがいの訪問販売が来る。外ではスーパーや政治広 報の宣伝カーががなり立てる。もう、ほっといてくれ、といいたい。

必要・不必要は自分で判断させてくれ、といいたい。便利すぎると思考力がなくなるじゃないか、と。

確かに、モノが溢れた今、日常生活は一見すると、便利になったようだ。 しかし、果たして生活は「豊か」になったのか。これまで起こっていた問 題や、今も起こっているいろいろな問題は解決されてきたのか。

単に選択肢が増えただけでは、何にもならないのではないか。選択肢が増 えた(ように思える分)、本当に大切な問題から目が逸らされているのではなかろうか。

自分でモノを作り上げる楽しみ。この場合のモノは、形ある作品ばかりで なく、人間関係などの形にできないモノも含まれているのだ。

思考を止められ、与えられることに慣れてしまうと、作る喜びや楽しみ、 充実感をも奪われてしまっているように感じる。

写真も同じこと。創造性よりも、再現性のみを重視した作品。テクニック だけでオリジナリティーが見られない作品は、見ていても面白くない。で はどうやれば独創性を出せるのか。

それは、撮す側が、まず自分を知ることから始めるしかない。

自分がどんな映像情報を受け続け、イメージ情報に操作されてきたのか。 ちょっとは意識する方がいい。それが、撮す側の出発点でもある。

これは、自分が写真を撮影し、発表するようになって初めて、強く意識し始めた。自分はどんな影響を受けて育ってきたのか、特にビジュアル的な影響を頭の中に、生活感覚としてすり込まれてきたのか。

オリジナリティのある写真撮影や作品作りには、自分の解体がまず必要で ないのか。そう、意識し始めた。特に、自分自身が活字人間であると自覚 しているだけに、頭の切り替えが、ちょっと大変だった。

しかし、ビジュアルな面で考えさせてくれたために、自分の脳に、今までとはちょっと違った刺激を与えてくれた。

写真を写すといっても、しょせんはフィルム(デジタルも含めて)に、自分の見た現実世界を複製しているに過ぎない。だから、いかに現実世界を 意識的に見ているか認識するのもまた重要なのである。

撮したいと思う被写体にメッセージがあり、そのメッセージに説得力があ れば、それは写真であれ、動画であれ、文章であれ、構わない。

大切なのは、何が大切なのか、大切なモノの本質を見抜く力である。また、 基本的に私は、そんなメッセージ性のこもった作品が好きなのである。

作品の体裁ばかりに凝り、作者の意図が分かりづらい作品、分かりづらく しようとするのは苦手である。分かり易く、深みがあり、優しさと、とき には面白さを感じさせる写真がいい。

まず、発表のため、作品作りのためだけの写真撮影をやめにすること。自分の感情のおもむくまま、自由な思考で被写体に接するのだ。簡単に撮っ た写真には、簡単なイメージしかできあがらない。

写した写真は、果たしてどれだけ自分が撮りたかった写真なのか。そんな反省も必要である。

日々消費されるイメージ情報。せっかく苦労して作り上げたとしても、その翌日、あるいは次の瞬間から過去のモノとして扱われる。苦労して作っ たものがそんな扱いをされる。
そんな今の状況に、ノン!と言いたい。

私は、歴史の検証に耐えうるヒューマニズムに徹した写真を撮っていきたい。また、そんな作品を他者に投げかけることによって、閉じているかも しれない個人を、個人と社会との関係をつなぐ可能性が開けるかも知れな い、とも信じたい。

だからこそ、とりあえず、撮る。撮って考える。撮りながら考える−どうして撮っているのか考える。限られた時間、空間(地域)、自分の選んだ主題や題材をもとにして撮り続けると、自分が出てくる。

今はまだそれしかない。机の前で考えていても仕方がない。だからこそ現場に行き続ける。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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感想は宇田有三(info@uzo.net)まで
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