フォトジャーナリストの独り言

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[フォトジャーナリストの独り言]
2001/04/14 第4号
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が
取材の中で、日々の生活の中で感じたことを書き綴ります。
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■第4号■

「閉ざされた空間から」─感性に取って代わったもの─

車窓の風景は、恐ろしい。のどかな景色は幻想であある。 

20世紀の終わりから「新世紀」にかけて、カンボジア・(タイ)・ビルマと 約2ヶ月半をかけて回ってきた。カンボジアでは首都プノンペン、タイ・ ビルマではいつも通り、国境を中心にほぼ一箇所に滞在していた。

ここでは、「世紀を越える」と、人間の創り出した時代をあえて意識的に強調する必要がある。

どちらの場所でも主な移動手段は、バイクか徒歩であった。ビルマの山奥、 カレン人の住む場所では、隣の村に行くのには半時間から数時間の山道を歩いた。全身汗まみれになり、砂ぼこりを浴び、山から山への距離感を自分自身の身体に埋め込んでいた。

日本に帰国して電車に乗り、車窓を流れさる景色を見ながら、無事に帰ってきたんだなという感慨にもひたる事ができた。今年は、いわゆる日本的 な年越しや正月はなかったな。

そう思うと、ちょっと寂しくもあり、無ければないでなんとかなる、べつにそれほどのことでもないんだな、とも思った。それだけ自分自身が社会 や家庭生活と無縁なのか。それに気づいて、少々驚きもした。

しかしこの3月、京都に向かう列車の中で奇妙な違和感を感じた。ゴトン、 ゴトンと線路のつなぎ目に沿って、規則的な電車の揺れは心地よい。しか し、そういう安堵感と同時に、気持ちは急いていた。

現地での約束の時間にぎりぎりだからだ。あと5分早く自宅(神戸)を出 ていたらこんなに焦らなくてもいいのに。そう思うと、いつも後悔する。

これが例えばエルサルバドルやビルマの山の奥だと、こんな焦りはもちろ ん感じない。中米・エルサルバドルに足を運んだ99年春、隣国ホンジュ ラスと接するセンステペケ県の山奥に住む知人を訪れようとしていた。

ところが、定期的に走っているはずの移動手段のバスがなかった。「今日はバスが予定通り動くかな。だめなら明日だ」。そこでは、いくら焦って も仕方がなかった。動きようがないからだ。気長に待つしかない。

車での移動するとすぐに渋滞に巻き込まれていたタイ・バンコクが変わりつつある。RTSと呼ばれる最新式の高架鉄道が開通したのだ。その便利さに感動した。スムーズな場所の移動ができるようになった。これはやは り良いことなのだろう。

地域が変われば生活状況や条件が変わるのは当たり前。いちいちそんな比 較をするつもりはない。しかし、いわゆる「先進国」の一つである日本に 戻って、奇妙な違和感を感じた。あれ、何か変だぞ、と。今回、電車に乗って、そのことを強く感じた。

5分や10分の遅刻はいいだろう。待ち合わせの場所にきちんと現れたな ら。私の行く現地取材で、しばらくそんな生活に慣れてしまうと、分刻み の日本の生活が息苦しくなる。

もちろん約束を守るのは当然だ。でなければ、私は誰からも信用されなくなり、今のこの社会では生きていけない。それが正論だ。

でも、その正論、この時、ちょっと変だぞ、と思った。

この5分や10分という感覚、やっぱり違う。どうしてだろうか。電車の揺れに身を任せて考えてみた。なんで日本は、こんなにセコセコして、焦っているのだろうか。目の間に展開する、流れ行く風景を見ながら、ふと思う。

そうか、「日本の社会は忙しい」と、また、「いわゆる途上国とは時間の流れが違うんだ」と錯覚させられているのだ。しかし、本当は決して忙しくはないのだ。

本来なら人間は、電車の走るスピードで移動できるはずではないんだ。そのことに慣らされているに過ぎない。そう思うと、ちょっとこわい気がしてきた。暑くもなく、寒くもない車内。空気も調節された空間。揺れも少なから、本も読めるし、自分だけの世界に没頭することができる。

しかしである、動物である人間の体感以上のスピードで移動しているのを全く感じさせてない今の時代。
やはり、おかしい。

移動手段は恐ろしいほど発達してきた。エアコンの効いた電車の中は、空気の移動も、風も、匂いも、景色も全てが消え去った空間だ。それゆえ、 閉ざされた空間は人間の感じる自然性を奪っている。人間は体感を失ってしまった。

自然の持つ感性が壊れかかっているのだ。もしかしたら、ニンゲンそのも のが壊れかかっている、人間関係の消滅へ向かっているのかも知れない。 今は、体感的なものだけかも知れないが、そのうち感情までも失うかも知 れない。

飛べるはずのない人間が空を飛び、信じられない速度で移動する。生物的な脳味噌は、この超自然状態をどのように処理・対応しているのか。素朴な疑問が浮かんでくる。さらにこのスピード感は、自然の持つ道徳性さえも失わせているかもしれない。

過去20年間、7回の引っ越しをしてきた。ある時、昔住んだ場所に通り かかった。ちょっとした郷愁を感じても、その郷愁に深みがなかった。懐 かしさは、ただ、そこに住んだ、生活した。それだけの記憶ではないのだ。

当時、そこに住みながら、人との交わりがあった。よく買い物に行ったパン屋のおばちゃん、食堂のおじさんを思い出す。言葉は交わさなくても、 定期的に通えば人と人との交流があったのだ。

そういう関わり合いの思い出が、無意識的に深い郷愁を誘うのだ。単なる場所への思い入れは少ない。そこで暮らしたときの匂い、音、空気、風景、 時間など、動物的な五感を記憶に織り込んでいくのだ。

土がアスファルトになり、徒歩が車・電車になっていく。自然性から離れていく人間。自然の体感を失っていく人間が現れた。だからといって、不便な過去に戻れといっているのではない。

それは、今のこの社会は現実なのだから。ヒトとしての感性を失いつつあ る生物社会の出現はなぜ生まれてきたのか。電車の車窓から流れ行く風景 を見ながら、その理由をかいま見たような気がした。 。

ふと周囲を見渡すと、電車の中は不機嫌な顔の人々が大半だ。私にはそう 思えてしかたがない。おそらく窓に映った自分の顔も不機嫌なんだろう。 携帯電話のボタンを押し続ける老若男女たち。どうあがいても自然には逆 らえない。いつの日にかそのしっぺ返しが怖い。その恐さを感じている。

さらに私が恐怖を覚えたのは、その人間の「感性」の後がまに、一体何 が入り込んだのかを想像したときだ。
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(c) Yuzo Uda 1995-2004
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