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サンプル(第1回)
===================================== 2001/03/**
[フォトジャーナリストの独り言]
■第1号■
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http://www.uzo.net/
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フリーフォトジャーナリスト・宇田有三(うだゆうぞう)が取材
の中で、 日々の生活の中で感じたことを書きつづります。
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「 いつか再び、喜びの涙を 」

幹線道路には、真新しい自家用車やマイクロバスが目立っていた。12年間 続いた内戦を思い起こさせるオンボロバスはあまり見あたらない。停戦か ら7年もたっているから当然かも知れない。

勤勉な国民性から「中米の日本」と呼ばれるエルサルバドル。首都サン サルバドルの下町地域では時々、新しい車に交じって、今にも壊れそうな 乗り合いバスが現役として走っている。そんなバスの真っ黒な排ガスを体 中に浴びながら私は、メルカード・セントラル(中央市場)の洋服屋を目 指して歩く速度を上げた。

4月のエルサルバドルは乾季の真っ盛り、気温は軽く35度を超えている。カメラバッグを持って少し歩くだけで体中から汗がどっと出てくる。 歩道から道路にはみ出した屋台や、路上にたむろする物売りの人々で、な かなか前に進むことができない。腐った野菜・肉・果物が入り交じってす えた臭いが、あたり一面に漂う。

町の美化計画で縮小されたと聞いていたメルカードは、以前と同じよう に巨大だった。迷路のように入り組んだ狭い路地を進みながら、「成長し ているはずのあの子になんて声をかけようか」。私の頭の中はそのことで いっぱいだ。

結局、最初に口に出た言葉は、「オッス、元気やったか」、だった。ア レキサンドラ・フェルナンデス(8歳)とは3年ぶりの再会。その子は私を 見て、ちょっと困惑した顔つきになった。しかし、母親のアデリーナ (54歳)さんから、「写真を撮ってくれたチーノ(東洋人)だよ」と言わ れると、にこっと笑ってくれた。その笑顔で暑さも疲れも吹っ飛んでしま った。

1992年2月1日、私は12年間続いた内戦終結の現場に立っていた。 停戦に湧くエルサルバドルの人々の写真を撮影しにメルカードに入った時、 アデリーナさんが、「この子の写真を撮っておくれ」、と赤ん坊を私の目 の前に掲げたのだった。それがアレキサンドラだった。それから94年、96 年、99年とエルサルバドルを訪問する度に彼の成長と新生エルサルバドル を撮り続けるようになった。

停戦に酔いしれる市民を撮影した自分の様子を当時、私は次のように日 記に書いた。
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「焼けつくような太陽の日差しを浴びながら、夢中でシャッターを切っ ていた。 そのうちカメラのファインダーの中が曇り始めた。気温のせいか、あるい は目の前でうごめく群衆の熱気のせいだろうか。FMLN(ファラブンド ・マルティ民族解放戦線:左翼ゲリラ連合組織)の赤い旗を振り、赤いス カーフをつけた人々。

しかし、いつの間にか、自分の目に涙があふれようとしているのに気づい た。泣くまいと瞼に力を入れたが、涙はとまらない。10年近くも流すこと のなかった涙でファインダーの向こう側が見えなくなりはじめる。胸が張 り裂けてしまいそうな熱い空気が肺に充満して息苦しくなる。シャッター が切れなくなりそうになった。 気を引き締めて、カメラを握りなおした。

『この人々の姿をネガに焼き付 けねば』。 その想いだけでシャッターを切り続けた」

今まで数多くの集会を撮影してきたが、これまで私が目にしたのは、怒 りや悲しみのメッセージを伝える集会がほとんどであった。しかし、エル サルバドルで私が体験したのは、心から平和を喜ぶ、幸せな人々の集会で あった。その強烈な印象は現在も私の中に生き続けている。  
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私がエルサルバドル入りする直前の昨年3月、米国大統領としては30年 ぶりにクリントン大統領がニカラグア・ホンジュラス・エルサルバドル・ グアテマラを歴訪した。

「ドミノ理論」を根拠に米国政府は80年代、市民を恐怖のどん底に落と し込んだ中米各国の軍事政権に対して、異常とも思える軍事技術・財政援 助を続けていた。政治的に東西冷戦の表舞台となったこれら中米四カ国は 当時、内戦の嵐が吹き荒れた。


産業振興よりも米国の援助によって国を支えられていたこれらの国々は、 債務危機に陥り、中南米のいわゆる「失われた10年」を代表することにな った。

中米歴訪の最後の訪問地グアテマラでクリントン大統領は、米国の過去 の中米政策を謝罪し、新たな関係を築いていこうと語った。ねらいはもちろん、新しい経済関係である。中米諸国ではこれまでの富裕層に加えて、 米国主導のネオリベラリズム(新自由主義)で経済的な機会を握った一部 の人たちが富を蓄えつつある。その牽引役を米国が担っている。戦闘・誘 拐・拷問と分かりやすい形での支配は陰を潜めている。

現在は、 ネオリベラリズムという形を変えた新しい植民地主義が根を深く張ってい る。

グアテマラのインディヘナと呼ばれる先住民族たちやエルサルバドルの 軍政に抵抗していた人たちは人間扱いされてこなかった。

50年間戦闘の続 くビルマ辺境のカレン人たちは現在も粗末な武器を持って軍政権に抵抗し ている。

人を殺すとはどういうことなのか。人が人を拷問して、苦しむ有様をみ るとはどういうことなのか。主義主張に反対するヤツは人間扱いしない、 そういうシステムがあることに気づいた。そのシステムを支えているのは 人間であり、無関心だと気づき始めた。

時間がたてば衝撃的な出来事も忘れられ、記憶からも消えていく。それ なら、新しい出来事だけに飛びついて取材するという生き方を選んでいけ ばいいのか。私は、自分の身の丈に合った、にあった方法で人に接し、彼 らの生きてきた姿を記録していこうと思っている。それゆえ、いったん関 わりをもったからには、事件が起きなくとも定期的に中米や東南アジアの 辺境のジャングルに足を運んでいる。

エルサルバドルでフォトジャーナリストという仕事をスタートした。そ れ以後さまざまな地域で、多くの死をや別れを経験したきた。92年にエル サルバドルで喜びで涙を出してから、決して悲しみや怒りで涙を流すこと は今はなくなった。私の切望する歓喜の涙はいつ流せるのだろうか。




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