Senor
de los Milagors
のミサ及び行進
2000年10月22日
神戸住吉教会
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写真家 ・
衛藤忍(大阪)さんによる情報提供と翻訳です。
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セニョール・デ・ロス・ミラグロスの歴史
17世紀半ば,リマのある村では,首都で簡単にお金を儲けることができるとの噂を 聞いて,各地から様々な人種が入港していた。その多くは,当時ポルトガル領であっ
た,コンゴ・マンテンガ・ボザーレ・カンブンダ・モザンピーク・テラノーヴァ・カ ラベリ・ルクモ・ミナ,そしてアンゴラといったアフリカ東部出身者だった。
彼らは,それぞれ共通の信仰に基づき集団で暮らしており,祖先の言葉で唄を歌った りすることで,かつての自由を思い起こしていた。
1650年,アンゴラ出身者達はパチャカミージャ(Pachacamilla)という地に信徒 会を結成した。しかし,当時ここでの生活環境は貧困以外の何ものでもなかった。
パチャカミージャは,かつてパチャカマック(Pachacamac)から移住していたインディ ヘナが暮らしていた地域で,現在は原始キリスト教徒の教会や修道院及びSENOR
DE LOS MILAGROSの信徒団体の所在地でもある。
信徒会の本部には,干しレンガ製の高い壁が築かれた。そこには人々が毎日のように 集まってきたのだが,一人のアンゴラ人は,イエス・キリストへの深い信仰心から十
字に張りつけになった主の御姿を描いた。
1655年11月13日14:45,リマとカジャオ(Callao)を襲った大地震は教 会や住居を破壊し,何万人もの死傷者をだした。その被害は,パチャカミージャにも
および信徒会の壁もほぼ崩れ落ちたのだが,ある奇跡が起こった。イエス・キリスト 像のみが,完全な無傷でそびえたっていたのだった。あまりもの痛手に,アンゴラ人
は他へ移住したが,聖なるキリスト像のみ残されていた。
アンゴラ人は地震前に移住したという説もあるが,確かなのは地震後に人々が破壊さ れた町中にて再び大災害が起こらぬよう祈り,歌い,そして礼拝を行ったということ
である。
それから15年後,サン・セバスティアン教区の住人であるアントニオ・レオンが残 されたキリスト像を発見すると,それを崇めるようになった。当時の叙述によれば,
レオンはこの過疎化した土地を建て直し始めた最初の人物であったが,それか らSENOR DE LOS MILAGROS 信仰が始まろうとは想像だにしていなかったであろう。
アントニオ・レオンが,医者にも見放された悪性腫瘍に悩まされていた時,キリスト 像の前に跪きこの苦しみからの救出を祈ったところ病気が本当に治ったという話を機
に,このキリスト像への信仰は広がりを見せていった:毎週金曜の夜には多くの人々 が集い,蝋燭の火をともし,花を飾り,香が漂う中,賛歌が歌われるようになっていっ
た。
しかし,人々が信仰のみならず,その新奇さに集まる傾向があり,信仰活動がキリス ト教を逸脱しつつあった理由から,支配者及び教会関係者も壁画のキリスト像を消す
よう命令を出した。
その命令は,1671年9月6日から13日までに実施されることになった。が,最 初の実行者の場合,彼がはしごを登った壁画は揺れはじめ,再度挑戦してもその揺れ
があまりにもひどく,実行するに至らなかった。二人めの実行者の場合,彼がはしご を登り壁画を見た途端,キリストの冠が緑色に変わったと大騒ぎして逃げ戻ってきた
のだった。
しかし,次第に市民の反対運動が起こりはじめ,結局命令は撤回された。
1671年9月14日,パチャカミージャで最初のミサが行われ,多くの信者が集っ た。以降,遥か遠方より敬虔な信者も巡礼に訪れ,その地は「El
Santo Cristo de los Milagros o de las Maravillas(奇跡を起こすキリスト)」と呼ばれるようになっ
た。
1687年,神の怒りはおさまらなかったのか,リマやカジャオを大地震が襲った。 キリスト像を祀った礼拝堂も倒壊したのだが,やはりキリスト像のみが無傷で残って
いた。
こうした悲劇が二度と起こらぬよう,油絵で描かれたキリスト像をパチャカミージャ の町中で行進させるようになり,毎年10月18日・19日にお祭りが開催されるに
至ったのだった。
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