On the Road U

< Vol.38 April - May 2001 >
語らぬ証言者
 夕暮れが近づき、あたりが薄暗くなり始める。車のエンジン音がグオ〜ン、グオ〜ンと響いてきた。ゴミ収集車の後輪が深いぬかるみにはまり、身動きできなくなっている。後輪が泥を跳ね上げている。遠目には巨大な象がうめき声をあげて、苦しんでいるようだ。異様な光景だ。
 昼間見るゴミ捨て場と日暮れのゴミ捨て場の風景にそう変わりはない。しかし、夕方ってのはやっぱりもの悲しい。汗がたえず吹き出す暑さも和らぎ、冷静な頭が戻ってくるからだろうか。子供たちはカメラを下げた私の姿を見ると、「ハロー、ハロー」と明るく声をかけてくれる。大人たちはカメラのレンズを向けられるのをいやがっている様子はない。
 午後6時前、分厚い灰色の雲に覆われた空の隙間のほんの一部がオレンジ色に輝く。今日も一日が終わるんだな、「ふぅ」っという安堵感を得る。しかしそこで働く人々はまだゴミ収集車の後部にはりつき、うごめいている。収集車から吐き出されるゴミに向かって、我先に駆け出している。
 ゴミ山のてっぺん近くでちょっと一休みする。露出計で光の強さを計ってみる。f2.8で 1/4 秒か。もう撮影は無理だな。カメラをバッグにしまい込み、ゴミ捨て場の様子を眺める。ふと、横を見ると、すぐそばに15歳前後の男の子が弟としゃがみ込んでいた。その二人のところに、5歳くらいだろうか、幼い女の子がご飯の入った容器を運んできた。3人で仲良くご飯を食べ始めた。「名前は」と聞くと、「ケムシェ」、と年長の男の子が答えてくれた。クメール語ができない私は、それ以上の会話は無理だ。3人で仲良く、それこそ肩寄せあってご飯を食べている。私たちのまわりは、それこそ蠅が黒い固まりとなってぶんぶんと飛んでいる。彼ら3人の姿を見ていると、思わず胸が熱くなった。そして哀しくなった。しばらく目を閉じた。でないと、こらえられなくなりそうだった。
  3人の姿が哀しかった。直視できなかった。なぜ、彼らはこんな生活をしているのか。わからなかった。小さなスプーンに白いご飯と青い野菜のスープをのせて、小さな口に運ぶ。
 その姿が哀しい。
 私の話しかける意味不明の関西弁を聞いてにこにことする。その笑顔が哀しい。
 辺り一面、猛烈な臭気と埃が充満している。そんな空気から口と鼻を守っているタオルを巻いた彼らの姿が哀しい。
 さらにそのタオルの隙間からのぞくまなざしの優しさも哀しい。
 彼らの生活を映像にとらえ、それを生業とする自分の姿はもっと哀しい。
 いつもなら、気軽に声をかけ続けることができたのだが、そのときだけは、それ以上口を開くことができなかった。本当は哀しむべきではないのだ。それは分かっている。仕事とは割り切れないのだ。「撮らなければ」、という気持ちと、「私が撮影しても、何にもならないのでは」という無力感だけが頭の中を駆けめぐる。

 私がカンボジアに足を踏み入れた理由の一つに、ポル・ポト時代(1975〜79)の大虐殺が何だったのかを知りたかったことがある。もちろん短期間の滞在では、不可能なことは承知である。最低、何だったのかを知るヒントを得たかったのである。100万人(〜300万人)以上の人々がたった4年の間に殺されたのだ。実際にその地を自分の目で見て、その地を自分で感じてみたかったのである。
 カンボジアではほんの20数年前に、想像を絶することが起こっていた。どうして起こり得たのか。そのことを、現地で考え、感じてみたかったのである。自分自身、どうしてその事を知りたいと思い至ったのか、その理由もはっきりさせたかった。
 とりあえず、来てみた。
 プノンペン市内に保存されている「トゥールスレン虐殺博物館」や郊外の通称「キリングフィールド」に行ってみた。噂で聞いていたとおり、犠牲者の髑髏で作ったカンボジアの地図が飾られていた。数え切れない髑髏が陳列されていた。作り物ではない、本物の髑髏である。そのいくつかにそっと触ってみた。何も語ることのできない「しゃれこうべ」だ。男か女か、老人か若者かも分からない。
 彼らは物言わぬ証人だ。
 キリングフィールドでは、米国人の文化人類学者が顎の骨を天日の下で調査をしていた。クメール人のあごの骨やアジア人のあごの骨の調査だという。「研究対象には事欠かない」とは、正直なコメントだった。
 しかし、である、そこに飾られている無数の「しゃれこうべ」は、死後もまた強制的に歴史の証言台に立たされている。彼らの意志に反して、政治に、研究に利用されているのである。作り物ではない本物の人骨ゆえにその証言はあまりにも強烈である。その強烈さを利用されているのである。本当に本物の髑髏が必要なのか、でも、それが本物ゆえに、見る者に深く考えさせるのだから仕方ないのか。答えの出ないジレンマを感じてしまう。
 それにしてもすさまじい記録である。しかし、と、私は思う。その過去の悲惨な状況に囚われるあまり、今のカンボジアを見なくていいのか。町に溢れる今のカンボジアの人を見ないでいいのか。過去に目を向けるのは、そこから今を考えるためである。なのに、今のカンボジアはほとんど相手にされない。それでいいのか。そういうちょっとした無関心の隙間から、次の問題の種がまかれているはずなのに・・・。

 そんな私の思いとは全く無縁に、ブルドーザーはうなり声をあげる。完全に暗くなってしまった。人々の表情はもはや判別できない。時計を見せたり、指で数字をつくったりして、何とか身振り手振りで、ケムシェ君に聞いてみる。
 「いつまで働くの?」と。「夜11時まで」、という。何かの間違いではないかと、何度も確認した。やっぱり11時だった。彼の頭にはしっかりとライトが取り付けられていた。
 カンボジアでも私は当然のように写真を撮った。自分の体験したカンボジアを撮った。考えがまとまらないからこそ写真を撮った。撮り続けることで、あやふやな自分の態度にけじめをつけようと思った。記録に、記憶に残る一瞬としてシャッターを切り続けた。今のカンボジアの姿の一面を表す、語らぬ証言者たちを前にして、私にはそれしかできなかった。
ゴミ捨て場で働く少年 ( プノンペン、カンボジア 12月2000年 )
首都のスラムにて精一杯生きる母と子 ( プノンペン、カンボジア 11月2000年 )
トゥールスレン博物館に「飾られる」髑髏 ( プノンペン、カンボジア 11月2000年 )

TOP
TOP
BACK
BACK