On
the Road U
< Vol.30 July - August 2000> |
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「異国に生まれ育って」 >
―あるカレン難民女性の生活(2)― |
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ビルマ・カレン州に足を踏み入れたことのないタエポーにとって、いわゆる「自治権」を求めて半世紀以上も続く民族闘争を理性的に理解できない。筋金入りの元ゲリラ兵士だった父親(58)からカレン州(カレン語でカレン州のことを「コートレイ:kawthlei」と呼ぶ──「花咲く大地・平和な土地」の意)のことを聞かされても、タエポーにはビルマ側に郷愁を感じる祖国はない。 「お父さんはビルマ人の全てを否定してしまう。私はビルマの軍隊や兵士は嫌いだが、村に住む普通のビルマ人とはうまくやっていける。ビルマ人であろうと、カレン人であろうと、私は戦争は嫌いだ。見たことも住んだこともない土地の為に闘うって、どういうことか分からない」 タイ・ビルマ国境は、厳しい自然環境を受け入れなければならない日常生活が続く地域である。さらにそこに、戦闘という人為的な厳しさが加わっている。雨季の湿度は高く、例えばカメラのレンズなどきちんと掃除をしないで1週間も放っておくとかびが生えてくる。さらに、タイ・ビルマ国境のマラリアの猛威は強烈である。そこで4世代に及ぶ内戦が続いている。そんな過酷なジャングルの中で戦闘を続けてきた彼女の父親は、ビルマ人に対して憎悪を隠そうとしない。 「カレンの伝統文化を守るためには抵抗を続けなければならない。コートレイは解放されなければならないのだ」 「ビルマ人は全く信用ならない。これまでのカレン人に対する抑圧の歴史が証明しているじゃないか。抵抗しなければ、カレン人は絶滅させられてしまう」 キャンプ滞在中、涙を流さんばかりの剣幕で怒鳴りながら話す父親。毎晩のように交わした激しい言葉のやりとり。今も忘れることはできない。そのため私も真剣に答えの出せない反問を彼に突きつけていた。 「じゃあ、どうすればいいのだ。このままでいいのか。現状のままだと、毎日のようにカレン人の命も土地も失われれていくばかりだぞ」 タエポーは、戦争はイヤだという素直な気持ちを話してくれる。そうはいっても彼女自身、実体験としてビルマ軍の恐ろしさを味わっている。95年の春、このキャンプ自体がビルマ軍の襲撃に遭い、母親と弟の3人で命からがら山の中に逃げ込んだ経験もある。また、キャンプ内には戦闘で傷ついたり、ビルマ軍からひどい目にあった人が数え切れなくいる。しかし、それでもビルマに戻るという父親たちの先の見えない消耗戦に納得がいかない。 「確かに(父母が生まれた)ビルマという国やその首都・ラングーンがどんな様子なのか興味はあります。でも、私はタイ人としてタイの土地で暮らしていきたい。」 タエポーはそうにはっきりと言う。 今住んでいる土地にこそ愛着を持ち、そこに生活基盤を見い出そうとする彼女のようなカレン人の出現は、カレンの伝統文化の礎をビルマ・カレン州の土地(コートレイ)に求めて、闘争を続けてきた父親のような旧世代の眼にはどのように映るのだろうか。そのことについて父親はあまり多くを語らない。 英国人と結婚し、今はタイの首都バンコクに住む2歳年上の姉ソポムーは、私にカレン人社会に潜む問題を指摘していた。 「ビルマ軍政府に対して抵抗運動を続けているKNU(カレン民族同盟)は結局、男性中心の世界だ。反政府組織の会議の中でKNUの幹部は、ビルマ政府の人権侵害や民族間の不平等政策に非難の声を上げている。でも、彼らは、会議が終わればそんな理想論は全く忘れ去っている。カレン男性のいう平等は、会議が終わればそれでおしまい。カレン人社会の家庭内の男女の不平等はほおって置かれたままだ。女だからというだけで、服装や恋愛も、行動も自由にならない。そんなカレン文化の為の闘いなら、私はごめんだ。」 気性の激しい姉ソポムーは不満をよく口にしていた。結局「伝統的」なカレンの生活に我慢ならず、難民キャンプを飛び出してしまった。ひょんなことから難民キャンプで英語を教えていた英国人と再会して結婚し、バンコクで子どもと3人で暮らしている。 昨年、バンコクの彼女の立派なアパートを訪れた。そのとき、タエポーの夫が危険を冒して出稼ぎに来ていた。しかし、タイも不況のまっ只中、不法就労の摘発を免れる仕事に就くのは難しそうだった。 バンコクで物質的に何不自由暮らしているソポムーと話をしてみる。 「そう、こうやって、バンコクに住んでも私はカレン人でしかない。タイ人にはなることができない。生活は困ってないけど、どうしていいか分からない。KNUのことを嫌っていても、実際に困っているのは、普通のカレンの人たちだし、彼らを助けてやりたいと思うし。でもどうやって。どうあがいても、私はカレンということから離れることができない、と思うと落ち着かなくなる。いったい自分は何者なのかと考えると、やっぱり私はカレン人なんだから、ということに思い至るの。」 そんな姉の影響を幾分か受けているタエポーは、自分なりの理想の家庭生活の考えを持っている。 「私は、自分の意志も尊重される結婚生活を望んでいます。男性と女性は平等な関係でありたい。それが、2人の生活の質を高めると思うからです。」 「でもこの家ではカレンの伝統通り、お父さんは家の中で威張っているのだろう」私がそう言うと、彼女はただ微笑むだけだった。そばにいた母親ミャイポー(50)は、声を上げて大きく笑った。娘のしつけには厳しい母親だが、彼女の意志はできるだけ尊重してやりたいという。 「タイに住みたければ住めばいい。でも、私は一刻も早くビルマに戻りたい。タイには住めない。」 母親は、キャンプ内の女性のリーダー役を努める活発な女性だが、カレンの「女性らしく」、決して出しゃばるような真似はしない。 タエポーといろいろな話をしたが、決して話題にできないことがあった。それは、彼女自身の夢を真剣に語ることだった。姉のように危険を冒して難民キャンプから抜け出す以外に、タエポーたちには将来の道が開かれていない。生まれて以来ずっと、紛争の影響の下で暮らしてきた彼女に、何を聞いたとしても、その答えはむなしく響く。 ビルマ国内での生活を体験してきた親の世代は、再び故郷での暮しを夢見て、今の難民生活の厳しさに耐えることができる。では、彼女たちのように異国の難民キャンプで生まれ育った者は、何にすがれば苦境を乗り切ることができるのだろうか。 撮影したフィルムには、ぼんやりと何かを見つめているタエポーの姿が多く写っていた。彼女の視線の先にはいったい何が捉えられているのだろうか。ファインダーを覗きながら、その視線の先に映る彼女のイメージを何とか捉えようともした。 タエポーの妹は、バンコクの姉と同じように、難民キャンプで英語を教えていたオーストラリア人と結婚し、タイ領内で合法的に住むための身分を手に入れることができた。 父母は、3人いる娘の中で、タエポーにだけカレンの伝統を受け継がせたいみたいだ。タエポーは母親の言いつけ通りに髪を長くのばし、いつもきちんと手入れをしている。彼女の結婚相手も母親が見つけてきた。親の家のすぐ横に2人の新居を構えたタエポー。子どもに乳をやりながら、昔ながらの癖でぼんやりと何かを見つめている。 2000年4月、ビルマ国境に近いタイの小さな町。その町に住む妹の家にタエポー一家が勢揃いした。上の姉は英国人の夫をバンコクに残して1歳になる息子を連れて来た。タエポー夫婦と父母も、タイ国境の検問をすり抜け、難民キャンプからやって来ていた。 難民キャンプにいる時のタエポーは、私と自然に話をするようになっていた。だが、押しの強い姉が一緒に会話に加わると、ついつい引いてしまって、口をつぐんでしまう。子供が大きくなって、難民キャンプでの生活がどう変わったのか聞きたかったのだが、彼女たち姉妹の関係を考えると、彼女を無理やり会話に引き入れるわけにはいかなかった。 冷静に考えれば、多種多様な顔ぶれの一家族だ。どのように分類したらいいのか。国籍でいえば、タイ、ビルマ、オーストラリア、イギリス、そして無国籍。また、男と女という分け方。さらに、生まれた場所も時代も世代も違う人々がいる。 ヒトは、この世に生を受けるとき、時代・地域・性・民族・国籍・人種・身体的特徴を選ぶことができない。私は、そのことにあらためて気づかされた。そして、彼らの前で困惑した。この現実をどう切り取ったらいいのか。単純ではないこの現実を映像として、どのように切り取ったらいいのか。シャッターを押す指に力を入れるのは簡単だが、果たしてそれだけでいいのか。 |
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夫(右)とわが子を見守るタエポー。 夫は現金収入を求め、
タイの国境の検問を超えて首都バンコクに数ヶ月出稼ぎに出ることもある。 |
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自らの村を守るために銃を持って立ち上がった少年兵に
闘いをやめろという勇気は、
部外者の私にはなかった。1999年 |
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タエポー一家(前列右タエポー。母親、姉、妹)
オーストラリア人と結婚し、法的に身分の安定した妹の家に集う。 |
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