On the Road U

< Vol.30 July - August 2000>
「異国に生まれ育って」
―あるカレン難民女性の生活(1)―
   数百キロに及ぶタイ・ビルマ(ミャンマー)国境には、およそ10箇所のカレン人難民キャンプが点在する。そこには、半世紀以上に及ぶ内戦やビルマ政府軍による迫害から逃れてきた約10万人のカレン人が不自由な生活を強いられている。
 カレンの取材を始めて今年で8年目。これまで、戦闘の続く最前線に足を運んだり、時にはタイ国境警察の目を盗んでキャンプ内に寝泊まりすることもあった。
 難民キャンプには、自治権獲得のため徹底抗戦を続けるカレン民族同盟(KNU)の支持者もいれば、長期にわたる戦争のため、単純にもう戦争はイヤだという者もいる。また、祖国への帰還を夢見る旧世代もいれば、タイ側の難民キャンプで生まれ育ち、ビルマに対してそれほど愛着を持っていない若い世代もいる。
 北の難民キャンプで知り合ったカレン女性 タエポー(23歳)もそんな若い世代に属する一人であった。彼女を通して感じた、カレンの「抵抗闘争」の一側面を考えてみたい。

 寒さで身を震わせ、何度も目を覚ました。日中の気温は35度を超えるが、夜明けが近づくと、乾期のタイ西北部の密林地帯は急激に冷え込む。防寒用のジャケットを身にまとい、毛布を二枚重ねてなんとか寒さをしのぐが、それでも身体が冷えて眠れない。震えで体をずらすと、カレン語で「プダ」と呼ばれる竹簀床がミシッっと音を立てる。
 難民キャンプの朝は早い。真っ暗で冷たい空気を引き裂くように、気の早い一番鶏の鳴き声が響き渡る。みんなそろそろ起き出す頃だろうか。濃い朝霧が立ちこめる中、人の動く気配がし始める。
 交通の便が良く、外国からの援助物資が届きやすい国道沿いの難民キャンプが多い中、タエポー一家の住むキャンプは、雨季の半年間、外の世界から遮断される山奥にある。  もともとビルマ・カレン州の村に住んでいたカレンの人たちは、ビルマ軍の迫害を避け、密かにタイ側に渡って、タイの山の中に村を移していた。タエポーの両親もその中にいた。ビルマ・カレンであるタエポーだが、実際はタイ領で生まれ、17歳までその村で生活していた。
 ビルマ軍による猛攻撃によってKNUの総司令部が陥落した1995年、国境に近い彼女の村も安全ではなくなった。5000人近いカレン人と一緒に、彼女の一家も今の難民キャンプへと移り住んだ。新しく移ったキャンプで彼女は、小学校の低学年を世話する教師として活動していた。だが、内気で恥ずかしがりやの性格のため、どうしても人前に立つのが苦手だった。そのため96年からは、外国の医療援助団体の助手としての仕事を始めた。
 彼女の一日の生活パターンは、ほぼ決まっている。午前か午後の半日、時には一日中、医療団体の診療所に詰めている。発熱したカレン難民がマラリアにかかっているか調べるために採血したり、その血液にマラリア菌が出ていないか、じっと顕微鏡を覗き込む。地味なこの仕事を結構気に入っているようだ。
 彼女と出会った95年、それほど広くない竹の家に同居しながら、ほとんど言葉を交わすことはできなかった。どちらかといえば私を避けているような様子であった。「カメラを向けてもいいかな」、という雰囲気は全く感じられなかった。無理をしたら写真を撮れたかも知れないが、私の直感は「まだまだ、駄目だ!」と告げていた。
 嫌われているのではないのは分かっていた。暑さで、汗みれになりながら食事をしていると、座っている私の後ろにいつの間にか立って、手作りの団扇をあおいでくれたこともよくあった。「涼しいなあ。タブルー(ありがとう:カレン語)」って言うと、愛らしい笑顔で答えてくれた。
 96年のキャンプ再訪で、ほんのわずかだが言葉を交わすことができるようになった。それでも、何か話しかけようとする私の雰囲気を察すると、さっと姿を消していた。その年は一度だけ、緊張した顔を2枚だけ撮すことができた。この難民キャンプでの滞在は、彼女の写真を撮るのが取材目的ではなかったが、それでもいつか、カレン女性としての彼女の姿を写し取って帰りたいと思うようになっていた。
 大きな雨傘を日傘代わりにして、タエポーが小走りで追いついてきた。小首を傾げ、一言も発することなく、笑いながら、「やっと追いついた」っていうように、ほっとため息をついた。
 キャンプ内の退屈な毎日に飽き飽きしていた97年の春、象を飼い慣らしているタイ・カレンの村が近くにあると聞き、一人でその村に向かっていた。いくら山奥の村といっても、やはりビルマ・カレンの人たちは「不法在留の」避難民だから、付き添いを頼むわけには行かなかった。途中でタイ軍やタイの国境警察に見つかって、うるさく言われるかもしれないだろうし。とりあえず地雷の心配のないタイ領だからと思って一人で出かけた。診療所から戻ったタエポーは、私が一人で出かけたと聞いて後を追いかけて来たそうだ。
 すぐそこ、と聞いていた一番近くのタイの村までは結構な距離があった(前線を歩いていたときも同じだった。カレンの土地で「すぐそこ」、と言われてもいつも数時間歩かされた)。中天の太陽の下、山を越え、沢を渡り、ただひたすら歩いた。目的地の村にいつ着くのか分からず、重たいカメラバッグを抱えた私は、理由なく無性に腹が立ってきた。しかし、汗まみれの私の前を行くタエポーは、照りつける太陽を遮る傘を片手に、少しも汗を流すことなく優雅に歩いている。カレン語で「テクー」と呼ばれる巻きスカートとサンダル履きで飄々と前を行く姿は、森の迷い人を導く妖精と錯覚させる。
 ようやくたどり着いたタイ・カレンの村には結局、象はいなかった。ほぼ半日歩いてたどり着いただけにがっくりした。その村には、タエポーの顔見知りも何人かいた。外部者から見ると、タイカレン、ビルマカレンと分けているが、彼ら・彼女たちにとっては同じ「民族集団」としての区別はあまりない。言葉も生活風習も似たような山に暮らす同じカレン人である。人為的な国境線が彼らの存在を分けているに過ぎない。

 落胆が大きかった分だけ、帰り道の長かったこと。往路以上に辛く感じた。近道を選んだ帰りは、急な斜面の道が多かった。さすがにタエポーも汗をかき始めていた。それでもゼイゼイと息を切らす私と比べても、平然としていた。「やっぱり、君もカレン人だなあ。それも強い強いカレンの女だな」って言うと、「フフフ」と小さく声を出して笑った。  難民キャンプが近づき、下り道や平地が多くなると、おのずと並んで歩くようになり、初めて自然な感じで話ができるようになった。大きな目をビシッと私に向けて、受け答えをしてくれた。その時からだった。少しずつ、彼女は自分の事を語るようになってくれたのは。

(つづく)
たった2年で少女から大人の女性へ変貌したタエポー。生まれたばかりの子どもをあやす。1999年
二人きりになってもようやく緊張感がなくなった。一緒に歩いた山道で休憩する。1997年
未婚女性の純潔をあらわす白い民族衣装「シモア」を身につけたタエポー。1998年

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