On the Road U

< Vol.30 July - August 2000>
< 義勇兵として生きて >
 1997年11月、ビルマ・カレン族に日本人義勇として戦闘に参加していた西山氏の訃報を受け取った。一時帰国していた東京で、幾度となく慢性のマラリアを再発させ、何度も倒れては病院に担ぎ込まれていた。「マラリアの治療についてはよく知っている。」そう言って、キニーネを生活の中に欠かしたことはなかった西山氏。その後、「熱帯病の治療はタイの方が進んでいる」と、弱った体で日本を後にした。
 タイ・ビルマ国境でマラリアをこじらせ、最悪なことに肺炎を併発させた。バンコクの病院で息をひきとったのは、33歳の誕生日の1週間前だった。
 友人から彼の訃報の知らせを受けとったとき、「彼の得意の悪い冗談だろう、一時的に身を隠すための方便」だと思った。しかし、そうではなかった。たちまち私は混乱した。「あいつまでもが逝ったか・・・。」信じられなかった。彼の笑い顔、怒った顔、ゲームに夢中になってた時の顔、パソコンに向かって考え事をしてた顔、得意げに自分の作ったカレンのホームページを見せてくれた時の顔、言いにくそうに女性の話をしてくれた時の顔・・・。
 胸の奥が締め付けられ、一気に感情の波が押し寄せた。5年前、エルサルバドルの停戦の時でさえ、我慢して流すことのなかった涙が、目の奥からジワリと浮かんできた。しかし、泣くまいと唇をかみ切りながら、踏ん張った。涙が流れないように目をぎゅっと閉じた。ここで泣いたら、彼に顔向けできない、と。その時、土曜日の深夜のラジオが、いつものようにお笑い番組を流していた。乾いた笑い声だけが部屋に響いていた。
 西山氏は、カレン族との出会いを「成り行き(縁)」だったと話していた。大学を中退し、冒険心を抱いて東南アジアを回っていた20代半ば、彼が出会ったのは半世紀に及ぶビルマ辺境の武装抵抗闘争であった。彼は最初、戦場という強い刺激のある場に、生き甲斐を求めたのかもしれない。だが、カレンの自由を求める戦いに参加するにつれ、彼はカレンの闘争を深く理解するようになった。
 「カレン族というだけで略奪され、虐待され、果ては命まで奪われ続けていた。」
 彼は、放ってはおけなかった。また、若い彼は知りたかった。カレンが軍事政権の容赦ない暴力に屈することなく、どうして半世紀もの間(今年、内戦52年目に突入)闘ってこれたのか。彼がそこで見たものは、自由を求める人間の力強い姿であり、困難な中でも助け合おうとする人間同士の優しさだった。
 日本人を知っているカレン人が真っ先にあげるのは彼の名前だ。現在のビルマ軍事政権に与する日本企業のことが現地で話題に出るとき、「カレンを想う、こういう日本人もいるじゃないか」と、私はそんなふうに、言い訳できた。私には彼の存在が唯一の罪滅ぼしだった。
 タイ・ビルマ国境のホテルに滞在中、取り立てて用事もないのに、よく彼から電話がかかってきた。体力と気力の限界を必要とする最前線から町に戻ったとき、妙に人恋しくなる。自分もそうだった。その気持ちを分かち合える人は、経験した者同士でしかできない。平和な町を見ていると、それだけで寂しさがこみ上げてくる。今、思うに、私は彼とその寂しさを分かち合えていたようだ。そう信じたい。
 多くの取材陣が西山の「ツテ」でカレンの支配区に取材に入って行った。しかし、私は取材の件で一度も彼に便宜を計ってもらったり、取材依頼をしたことがなかった。私は自分の独自ルートでカレンの取材をしていた。あくまでも彼とは「依頼する・される」の関係を持ちたくなかった。そのせいか、彼からいくらかの信頼を得ていたと、今になって感じる。2人だけの情報や行動を、しばらくして、いくつも築きあげることができたからだ。
 対外的には義勇兵士としての顔を表に出していたが、カレンのためにさまざまな仕事をこなしていた。日本に戻ると、建設現場の人夫や引っ越しのアルバイトでお金をため、カレンの人たちが必要とする医薬品を買ったり、子どもたちのためにおもちゃや文具品なども買い揃えていた。難民の食料を確保するため、日本の援助団体を回ったりもしていた。しかし決して、聖人君子のような行動ばかりではなかった。彼に対する不評も聞いたことがある。
 亡くなる数年前からは、戦闘に参加するより、カレンの人たちと移動診療隊を組織して、山深いカレンの村に入っていた。実戦に参加する体力がなくなってきても、自分にできることを精一杯やり遂げようとした。「村には入ってくれるな、カレン民族同盟に関係する者が村に来ると、それだけでビルマ政府軍から略奪や虐待を受ける。」
 医薬品を持って、苦労して山越えをしてたどり着いたカレンの村で、村長から言われた。その言葉を聞いた彼は、怒りを通り越して悲しんだという。カレン民族のために命を失った多くの戦友は何のために闘ってきたのか。自分も銃を持ってきただけにやりきれなかったという。
 カレンの武装闘争で、命を落とした外国人義勇兵の中には日本人Iもいた。西山は、Iが自分より先に逝ったことに負い目を感じていた。Iをカレンの101部隊に紹介したのも西山だったからだ。それもあって、どんなつらいことがあってもカレンから手を引くことができなかったようだ。先に逝った多くの戦友に少しでも近い現地で仕事をする必要性を感じていた。
 人は『死に方や場所を思い通りに選ぶこと』をできない。前線に立ってきた彼は、敵・味方にかかわらず多くの死を見てきた。それだからこそ、自分は「生きる場所と時間を選択した」と書き残している。自分を追い込んだ生き方だった。私は、彼のとった行動に純粋さを感じる。
 彼はカレンの実状を知ってもらうために、インターネットでの情報発信のため、パソコンでのホームページ作りに夢中になっていた。パソコンの使い方が分からなくなると、時間に見境なく、真夜中であっても、日本に戻っていた私に現地から電話をかけてきた。深夜2時、3時であろうと容赦はなかった。今でも、夜遅くまで起きていると、彼からの電話がかかってくるような錯覚にとらわれる。

―自分の信じる道を歩んだ友へ―
彼の作っていた、義勇兵としての立場を述べているHPを、私の責任編集で復活させました。もし、興味のある方はアクセスしてみてください。
http://www.uzo.net/notice/lin/freedom/freedom.htm
タイ・ビルマ国境にあたるモエ河を下り、前線からカレン民族同盟解放軍第7旅団司令部へ戻る。
寝起きのカレン兵。旧式の武器でゲリラ戦を繰り広げる。
97年6月13日、タイ・ビルマ国境で彼と最後に行動した日。
 難民キャンプの様子をビデオに収める西山氏。           
前線へ移動中の西山氏。

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