On the Road U

< Vol.26 March - April 2000>
いつか再び、喜びの涙を
 幹線道路には、真新しい自家用車やマイクロバスが目立っていた。12年間続いた内戦を思い起こさせるオンボロバスはあまり見あたらない。停戦から7年もたっているから当然かも知れない。
  勤勉な国民性から「中米の日本」と呼ばれるエルサルバドル。首都サンサルバドルの下町地域では時々、新しい車に交じって、今にも壊れそうな乗り合いバスが現役として走っている。そんなバスの真っ黒な排ガスを体中に浴びながら私は、メルカード・セントラル(中央市場)の洋服屋を目指して歩く速度を上げた。
  4月のエルサルバドルは乾季の真っ盛り、気温は軽く35度を超えている。カメラバッグを持って少し歩くだけで体中から汗がどっと出てくる。歩道から道路にはみ出した屋台や、路上にたむろする物売りの人々で、なかなか前に進むことができない。腐った野菜・肉・果物が入り交じってすえた臭いが、あたり一面に漂う。

  町の美化計画で縮小されたと聞いていたメルカードは、以前と同じように巨大だった。迷路のように入り組んだ狭い路地を進みながら、「成長しているはずのあの子になんて声をかけようか」。私の頭の中はそのことでいっぱいだ。
  結局、最初に口に出た言葉は、「オッス、元気やったか」、だった。アレキサンドラ・フェルナンデス(8歳)とは3年ぶりの再会。その子は私を見て、ちょっと困惑した顔つきになった。しかし、母親のアデリーナ(54歳)さんから、「写真を撮ってくれたチーノ(東洋人)だよ」と言われると、にこっと笑ってくれた。その笑顔で暑さも疲れも吹っ飛んでしまった。
  1992年2月1日、私は12年間続いた内戦終結の現場に立っていた。停戦に湧くエルサルバドルの人々の写真を撮影しにメルカードに入った時、アデリーナさんが、「この子の写真を撮っておくれ」、と赤ん坊を私の目の前に掲げたのだった。それがアレキサンドラだった。それから94年、96年、99年とエルサルバドルを訪問する度に彼の成長と新生エルサルバドルを撮り続けるようになった。
  停戦に酔いしれる市民を撮影した自分の様子を当時、私は次のように日記に書いた。
 「焼けつくような太陽の日差しを浴びながら、夢中でシャッターを切っていた。そのうちカメラのファインダーの中が曇り始めた。気温のせいか、あるいは目の前でうごめく群衆の熱気のせいだろうか。FMLN(ファラブンド・マルティ民族解放戦線:左翼ゲリラ連合組織)の赤い旗を振り、赤いスカーフをつけた人々。しかし、いつの間にか、自分の目に涙があふれようとしているのに気づいた。泣くまいと瞼に力を入れたが、涙はとまらない。10年近くも流すことのなかった涙でファインダーの向こう側が見えなくなりはじめる。胸が張り裂けてしまいそうな熱い空気が肺に充満して息苦しくなる。シャッターが切れなくなりそうになった。気を引き締めて、カメラを握りなおした。『この人々の姿をネガに焼き付けねば』。その想いだけでシャッターを切り続けた」
 今まで数多くの集会を撮影してきたが、これまで私が目にしたのは、怒りや悲しみのメッセージを伝える集会がほとんどであった。しかし、エルサルバドルで私が体験したのは、心から平和を喜ぶ、幸せな人々の集会であった。その強烈な印象は現在も私の中に生き続けている。

  私がエルサルバドル入りする直前の昨年3月、米国大統領としては30年ぶりにクリントン大統領がニカラグア・ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラを歴訪した。
  「ドミノ理論」を根拠に米国政府は80年代、市民を恐怖のどん底に落とし込んだ中米各国の軍事政権に対して、異常とも思える軍事技術・財政援助を続けていた。政治的に東西冷戦の表舞台となったこれら中米四カ国は当時、内戦の嵐が吹き荒れた。産業振興よりも米国の援助によって国を支えられていたこれらの国々は、債務危機に陥り、中南米のいわゆる「失われた10年」を代表することになった。
  中米歴訪の最後の訪問地グアテマラでクリントン大統領は、米国の過去の中米政策を謝罪し、新たな関係を築いていこうと語った。ねらいはもちろん、新しい経済関係である。中米諸国ではこれまでの富裕層に加えて、米国主導のネオリベラリズム(新自由主義)で経済的な機会を握った一部の人たちが富を蓄えつつある。その牽引役を米国が担っている。戦闘・誘拐・拷問と分かりやすい形での支配は陰を潜めている。現在は、ネオリベラリズムという形を変えた新しい植民地主義が根を深く張っている。

  グアテマラのインディヘナと呼ばれる先住民族たちやエルサルバドルの軍政に抵抗していた人たちは人間扱いされてこなかった。50年間戦闘の続くビルマ辺境のカレン人たちは現在も粗末な武器を持って軍政権に抵抗している。
  人を殺すとはどういうことなのか。人が人を拷問して、苦しむ有様をみるとはどういうことなのか。主義主張に反対するヤツは人間扱いしない、そういうシステムがあることに気づいた。そのシステムを支えているのは人間であり、無関心だと気づき始めた。
  時間がたてば衝撃的な出来事も忘れられ、記憶からも消えていく。それなら、新しい出来事だけに飛びついて取材するという生き方を選んでいけばいいのか。私は、自分の身の丈に合った、にあった方法で人に接し、彼らの生きてきた姿を記録していこうと思っている。それゆえ、いったん関わりをもったからには、事件が起きなくとも定期的に中米や東南アジアの辺境のジャングルに足を運んでいる。

  エルサルバドルでフォトジャーナリストという仕事をスタートした。それ以後さまざまな地域で、多くの死をや別れを経験したきた。92年にエルサルバドルで喜びで涙を出してから、決して悲しみや怒りで涙を流すことは今はなくなった。私の切望する歓喜の涙はいつ流せるのだろうか。
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昨年の取材ノートを振り返ってみる。1〜2月はタイとビルマ、3〜4月は米国・ボストンを経由して中米のエルサルバドルとグアテマラを訪れた。中米から日本に戻る途中、再度ボストンに数日間滞在し、旧友と再会を祝った。8月には、トルコの大地震取材。10月は息抜きの米国旅行。
  昨年も走り続けた1年だった。この間、多くの出会いと別れがあり、喜びや悲しみもあった。過去10年間、この暮らしはほとんど変わっていない。今年こそは腰を落ち着けて、これまでの取材のまとめをしようと思っていた。また、昨年申請したオーストラリアへの永住ビザの結果待ちの身でもある。だが、やはりじっとしていることはできなかった。3月末の飛行機でバンコクに発つことになった。'On the Road' again は、我が愛しき、Jack Kerouac の著作のタイトルからいただいた。
フォトジャーナリストとして明るい写真を撮影するのも楽しい。「この子の写真を撮っ てくれ」。
手に息子のアレキサンダーを持ち、92年のエルサルバドルの停戦に歓喜するアデリア。
8年後のアレキサンダー。内気ではにかみやの少年に育っていた。

夕暮れ直後のパース市。

キングスパークから見下ろしたパース市街。

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